きもちがすこし落ち着いたのか、キタノの涙はとまっていた。赤く腫れた目は橋の上でべとりと汚く潰れたエコバッグを捉えている。
「苦しくても生きれてしまうんが、怖いんよ」
キタノの声は震えていた。そういうもんやろ、と最初に浮かんだことばを投げかけるのはきっと間違っているのだろうとトミナガは黙りこんだ。小学校のチャイムの音が住宅街の静かな空気を震わせる。全クラスの終わりの会で、校門からいちばん近い橋に不審者がいるので注意するように、と担任たちから告げられた児童たちは橋のたもとでたむろしているふたりの男を視野の隅に入れつつ、意識的に無視して帰路についた。ただ、四年三組の差和と未鳥だけは不審者の正体を突きとめようと、十メートル南下したところにあるもうひとつの橋からふたりの様子を観察している。図書室に置いてある江戸川乱歩とかコナン・ドイルとかをよく読んでいる子どもたちだった。
トミナガが友人にいまかけるべき正しいことばをおもいつかないでいると、キタノは唇を舐めてから口をひらいた。
「おれが小説家なんて目指さんとちゃんと働いてたら苦労かけへんくて済んだのに、そんなん気にせんでええって幸歩が言うんよ。けどそんなわけないやん、手取り十八万とかひとり暮らしするのも精一杯やのにさ」
ずう、とキタノは鼻水を啜り、うう、とまた嗚咽を漏らしはじめた。トミナガは、さっちゃんめっちゃ肝すわってるやん、と感心した。幸歩はトミナガとキタノが学生時代に所属していた文学サークルのいわゆるマドンナ的存在だった。トミナガ以外の男子部員全員の意中にあった幸歩は、サークル内でゆいいつ新人賞の最終候補にまで登りつめた経験があるキタノに恋をした。それはマドンナと天才による至極納得のできる恋愛の流れで、このカップルの誕生を誰もが祝福せざるをえなかった。そうして大学卒業後にふたりは同棲をはじめ、現在は派遣会社経由で大学図書館の司書をしている幸歩がコンビニでアルバイトをしながら新人賞受賞を目指して小説を書いているキタノを養っている。