小説

『しんしんと。』裏木戸夕暮(『三好達治詩集「測量船」より「雪」)

 瀬戸際で感情が蘇り、私の雪女のような体で夫を温められたらいいのにと、切に望みました。夫は洞穴を落ちるように死んでいき、体をつん裂く悲しみに、心が吠えました。
 酒蔵は清次さんが継ぎました。

 私は婚家を追われ、清次さんは引き留める素振りを見せましたけれど、周囲の圧力に勝てる程強くはありませんでした。
 私も留まる気はありませんでした。
 あの人が心と体の一部を持っていき、空いた穴に清次さんの入る隙はなかったのです。
 夫が居たから清次さんを好きになったのだと、初めて気づきました。
 夫に似た体と声に抱かれたかっただけだと。
 その逆はなかっただろうとも、気づいたのでした。

 私が愛したのは夫。でも、愛してくれたのはどちらだったのでしょう。
 体を顧みず好きな酒を飲んで、他の女にも果実のような笑顔を向けたあの人と。
 煙草も酒も嗜まず、ただ穏やかに寄り添ってくれた清次さんと。
 私の脳は蕩けてしまい、もう分からない。

「高橋さん、お部屋に戻りますか?」
 誰を呼んだの?若い女の声。夫の浮気相手かしら。返事なんてするものですか。
 夫・・夫の名前は何て云ったかしら。

「聞こえてないのかしらね」
「まだちょっと時間があるから、後でまた声を掛けて」
「分かりました」

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