小説

『月の湖』夏野雨(『竹取物語×白雪姫』)

 橘那月さん、というのが伯父の相手で、母はその人に会ったことがあるらしい。
連絡するべき人リストにも書かれていなかったところをみると、一時は結婚を考えたけれども今は疎遠となっていたのだろう。いかに几帳面な伯父といえども、長い年月の間に、しまい込んだ婚姻届の存在を忘れていたのかもしれない。カードはすべてその人に譲る、と母が言ってきかないので、私は行方を捜すことになった。しかし母がその人に会ったのも四半世紀前、会った場所は伯父の家。しかしその家はもうなく、相手の連絡先は不明。ただ一つ手がかりはあった。婚姻届に書かれていた住所だ。

「あった」住所をたよりにバスを乗り継いで向かった先には、一軒の喫茶店があった。
 あらかじめ調べてそのことは知っていたが、先に電話をかけておく気にはどうしてもなれなかった。電話をかけて、例えばお店がもうなかったり、伯父の相手とは何の関係もなかったり、もし当人が出たりすれば、どうするのか、考えているうちに頭が痛くなってきたのだ。それならいっそ、当たって砕けろ、行って確かめるのが一番いい。
 暖かな日だった。喫茶輝夜、と書かれた看板の横には小さな花壇があって、こぼれるように花が咲いていた。よく手入れされている。どんな人が出てくるのか、取り返しのつかないような気持ちで戸を開けた。

 軽やかなベルの音と一緒に踏み込んだ店内は、思いの外明るかった。大きく開かれた窓、赤い布の張られた椅子、木のテーブル。コーヒー豆の匂い。旧い喫茶店特有の、すこし湿ったような豊かな匂い。
「いらっしゃい」カウンターの内側にいたのは、青年だった。
「珈琲を下さい」
「ブレンドでよろしいですか」
「はい」
 そのままカウンターの端に座る。すぐ脇は本棚になっていて、様々なサイズの本が納められていた。

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