小説

『月の湖』夏野雨(『竹取物語×白雪姫』)

 実月さんは屈託なく笑った。
「何も言わずに?」
「僕には、何も」
「私にも…まあ、当たり前か」
「そんなことないですよ」
「そんなことないでしょうか」
「はい」
「姪っ子も林檎ジュースが好きだって」
「言ってました?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい」
「今度母を連れてきますね」
「はい」
「そういえば祖父から聞いた話があって、ダムの話なんですが」
「はい」
「祖父の育った村が、ダムに沈むことになったらしいんです」
「え?」
「祖父の小さかった頃のことなので、半世紀以上前のことなんですが」
「はい」
「荷造りして家を出るとき、忘れ物に気づいたらしいんです」
「忘れ物?」
「でももう間に合わなくて、取りに戻ることはできなかったって」
「何を」
「忘れ物?」
「何を忘れたんですか」
「お母さんの小さな鏡」
「え?」
「お母さんの手鏡を、こっそり盗んで見つからないように隠しておいたそうなんです。家を出るとき、最後にそれを取ってくるつもりが、忘れてしまった」
「……」

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