小説

『月の湖』夏野雨(『竹取物語×白雪姫』)

 青年はカウンターの向こうで、珈琲を淹れ始めた。珈琲が来たら訊こう、そう思いながら、メニューをめくる。落ち着くためにサンドイッチでも頼もうか。あるいはホットサンドか。そういえば以前喫茶店でアルバイトをしたとき、トマトジュースを注文した客にはタバスコをつけて出していた。それが正式なやり方なのだとその店のマスターは言っていたが、それは本当なのだろうか。ここのマスターに訊いてみようか。いや、マスターというにはちょっと若すぎるのでは?ではアルバイト?しかしアルバイトという雰囲気でもない。いや、人を年齢で判断するのはよくない、しかしこれほど若いということは伯父の相手について何も知らないのでは?いや、若く見えるだけで実年齢はかなり上ということも考えられる。ドラキュラみたいに。ドラキュラ?あの血を吸って若さを保つ?
「おまたせしました」
「ぎゃっ」脳内が忙しすぎて収拾がつかなくなったところに、珈琲が置かれたのでつい大きな声が出てしまった。青年の方が驚いてこちらの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「ト、トマトジュース」
「えっ?」
「トマトジュースにはタバスコをつけますか?」
「トマトジュースは置いていませんが」
「そうですよね」
「トマトジュースがご希望でしたか?」
「いえ、そうじゃなくて」
「確かにトマトジュースにタバスコを一滴入れると味が変わるらしいですね」
「そうじゃなくて、ダ、ダ、ダムがお好きなんですか?」
「ダム?」私は、奥の本棚を手で示した。本当は店に入ったときから気づいていた。そこに並べられた本の殆どは、ダムと建築に関するものだった。
「ああ、好きです」
「橘那月さんですか?」何の脈絡もなく、訊いてしまった。
 青年はぽかんとした顔をした。これほどまでにぽかんとした顔をした人を目の前で見たのは初めてだ、と私は思った。
「橘那月は、祖父ですが…」青年は何かを確かめるように私を見た。
「あなたは…?」

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