小説

『月桃の声』久白志麻木(『耳なし芳一』)

 やがて日が落ち森の中に黄昏時がやって来た。
 依が切り株の舞台がある広場までやってくると、独特の熱気に気圧されそうになる。それは今までに感じたことのない種類のものだった。木の椅子に座って舞台を一心に見つめる老若男女の観客たちは決して声を出して騒ぐわけではないが、確かに熱い想いを抱えてじっと依の唄を待っていた。
 依は冷静な気持ちを保とうとひと呼吸置いてから弦へ指をかけ、温かみのあるハスキーヴォイスで呟くように唄い始めた。洞穴の岩に音楽がまるで染み入るように含みを持って響いた。一曲目は雨の曲、雨には色んな種類があるという曲だ。麗らかな春の五月雨。暑苦しい夏の雨。移り気な秋の雨……。
 大きな音量を出さずとも、細やかなリュートの弦の音色は唄い手の確かな想いを紡ぐように観客へ伝えた。観客たちは大人も子どもも恍惚とした表情で依の唄を聴いている。ふいに観客席のほうから着飾った美しい細身の踊り子がひとり現れ、依の演奏に合わせてその体をしなやかな枝のように揺らした。

 時間があっという間に過ぎ辺りがすっかり暗くなった頃、いよいよ月桃の声をやる時分となった。依が感情を込めて唄い始めると、森の樹々たちが待ちわびたと言わんばかりに枝葉をざわめかせ大きく揺れ始めた。
〈ここから見える夕凪も 今じゃ淋しく胸を打つ 明日があったらいいけれど 今日でしまいのこの命――〉
 その唄は聴く者の脳裏に絵を見るよりも鮮やかな風景を思い起こさせた。日暮れ時、海に面した丘の上で珠が連なるように咲き誇る薄桃色の月桃たち。いつも賑やかな海の波がその日は静かに凪いで、これから来る花々との別れを憂いている。

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