小説

『月桃の声』久白志麻木(『耳なし芳一』)

 當木(とうき)家は今より百年ほど昔から続く家系で下関に出自があり、そこから段々と東へと流れて向島へやって来た。依(より)という青年は現在二十六歳で、その當木家の末裔にあたる。
 嘘か真か、當木一族の先祖は小泉八雲の小説で有名となった壇ノ浦に伝わる民話の主人公〈耳なし芳一〉だといわれている。芳一といえば盲目の琵琶語りの名人で、その演奏で平家の怨霊たちを魅了し果てには両耳を奪われてしまったというが――それはあくまでも物語であり、彼が実在したかどうかは不明だ。ただ少なくともモデルになった人物がいるという説があり、當木にも琵琶弾きとして生計を立てた者がいたのでその噂が立ったようである。
 依の両親も音楽家で、その影響を受け彼は幼い頃から様々な楽器に慣れ親しんだ。
 依は不思議な子どもだった。言葉を話し始めるのが他の子どもたちよりも遅く、言葉を覚えてからも人間より植物や動物たちと心を通わせることが多かった。それを見守りながらも案じていたのは依の祖母である。

 向島にある依の家の近所には壮麗な蓬莱桜の木があった。ある春の日のこと、その桜の姿をひと目見た依が転がるように家へ飛び帰ってきて身を震わせながら「今日の桜は怖がっていた。」と言うのである。
 不思議なことにその日の夜、恐ろしく激しい大嵐がやってきた。桜の樹幹は太かったので強風に煽られても折れることはなかったが、細い枝は何本も折れ花びらはほとんど散ってしまった。翌朝そんな樹を見て依は同情し、小さい両腕で幹を優しく抱きかかえようとした。
 その顛末を見ていた依の祖母は依と耳なし芳一を重ね、「この子は感覚が繊細で優しい子だが、木に宿る精霊や、目に見えない妖の類に好かれる子かもしれん。」と言った。そうして、真ちゅう製の小さな紅い水琴鈴をお守り代わりに依に手渡したのだった。

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