小説

『二人羽織』斉藤千(『芝浜(落語)』(東京都))

 シン、という音が聞こえそうなほどの静寂が、辺りには漂っていた。俺が口を噤んだ途端、時間の流れが停まってしまったようだった。
 笑いの形のまま固まっていたお客たちの顔が、徐々に素へ戻っていく。時間は流れている。
 俺は口を小さく息を吸い、それから言った。
「勉強して参ります」
 苦笑い一つ起こらなかった。

 夜の倉庫街の隅で、俺は炎を眺めている。絶えず形を変える炎は、いつまでも見ていられる気がする。
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかこれほどとはな」師匠が言った。「お前はどうやら本当に地獄へ行きてえらしいな」
「そんなつもりはありません。ただ、死んだように生きるのが嫌なだけです」
「今まで適当こいてた奴が、今更何言ってやがる」
「それはまあ、そうなんですがね。でも俺、気付いちまったんですよ」
「何がだよ」
「俺は、俺としての蝶福亭全角になりてえんです」
「お前……」
「そう気付けたのは師匠のお陰です。師匠が現れなかったら俺、いつまでも酒浸りで、ずっと適当やって、二ツ目のまま燻ってました。本当にありがとうございます。感謝してもしきれないぐらいです」
 俺はポケットから手拭いを出した。師匠が使っていた手拭いだ。
「だから、ここからは本当の蝶福亭半角として、俺なりの蝶福亭全角を目指していきます」
 ヒョイと手拭いを炎に投げ込んだ。
「師匠はもう休んでください。あの世から、俺の活躍を見守ってください」
 両手を合わせ、目を瞑る。南無阿弥陀仏と心の底から師匠を弔う。
 ところが、だ。
「テメエ、ふざけんなよ」
「は?」
 手拭いのせいで勢いを増した炎が目の前で揺れていた。
「何が『俺なりの蝶福亭全角』だ。人のもん、勝手に盗るんじゃねえよ」
「師匠?」
「蝶福亭全角は俺だ。俺でしかねえ。テメエのような下手くそが名乗っていいわけねえだろ」
 風が吹き、火の粉が舞った。

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