小説

『二人羽織』斉藤千(『芝浜(落語)』(東京都))

「おい」
 酔いの残る頭に声が響いた。
「おい、半公。お前、何やってんだ」
 振り向くと、果たして死んだはずの師匠が座っていた。
「は、師匠? 何でここに?」
「何でここにも何もねえ。お前、他人の手拭いで何やってんだ」
「ちり紙がねえんで、鼻を」
「馬鹿。ちったあ大切にしねえか」
「すいません」おれは頭を下げる。「そんなことを言うためにわざわざ化けて出たんで?」
「お前がそれを持つに足る噺家になれるかどうか、見定めようと思ってな。お前、一年以内に真打ちになれ」
「何言ってんです師匠。寝言は寝ていってくださいよ」
「寝るどころかこっちは死んでんだ。冗談でも何でもねえよ。俺は本気だ」
「俺が真打ちになんかなったら、怒る人がたくさん出ますよ」
「だから誰にも文句言わせねえぐらい腕磨くんだよ。それからお前、あれ禁止な。『勉強して参ります』ってやつ」
「俺の唯一の笑いどころですよ」
「馬鹿。あんなもん、お客を笑わせてるんじゃねえ。嗤われてるだけだ」
「まいったなあ」おれは頭を掻く。「もし、真打ちになれなかったらどうなるんで?」
「その時はお前――」師匠は一瞬考えてから、「一緒に地獄へ連れてくよ」

 手拭い一つで地獄へ連れて行かれちゃ堪らない。こんな布きれより蝶福亭全角の名前が欲しかったと思いながら、俺は頭の中に住み着いた師匠に追いまくられるように稽古を積んだ。四六時中頭の中に居るわけだから逃れられない。稽古稽古でまた稽古。加えて私生活にも口を挟むものだから、ろくに酒も飲めやしなかった。
 俺は何年かぶりで素面のまま高座へ上がることになった。それは素っ裸でお客の前に出て行くのと同じ心持ちがした。いや、そちらの方がいくらかマシに思えたぐらいだ。

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