小説

『二人羽織』斉藤千(『芝浜(落語)』(東京都))

 師匠が死んだ。俺に名前を譲る約束もせずに。俺は蝶福亭半角のまま取り残された。
 葬式の諸々は弟弟子と姐さんがパッパと済ませた。俺は隅で酒を呷りながら、呆気なく逝っちまった師匠を弔っていた。いや、単なるヤケ酒だった。
 高座に上がっても、身が入らなかった。何をしてもお客は笑わず、欠伸や居眠りだけでなく、これ見よがしに席を立つ者もいた。まあ、いつも通りといえばその通りだが。いつもなら確実に一つ二つの笑いが取れる「勉強して参ります」というサゲの文句にも、我ながらキレがなかった。
 そんな案配だから、姐さんに呼び出された時は説教をされるものとばかり思っていた。たしかに、師匠の家に行くと寄席での体たらくについて小言を賜ったが、本題はそれではないようだった。
「これをあんたにって、あの人が」
 渡されたのは、四角く折り畳まれた手拭いだった。何か包んであるのかと思い解いていくが、中には何もない。
「何も入っていませんが」
「馬鹿だね。その手拭いのことだよ」
「随分汚え手拭いですね」
「汚えなんて言う奴があるかい。それはあの人が真打ちになった時からずっと使ってたものだよ。あんたに渡すよう言われてたんだ」
 白地に藍の文字で〈蝶福亭全角〉と入ったその柄には見覚えがあった。何度も洗濯させられて、よく皺が伸びきっていないと叱られた。
「あの人の汗と涙が染み込んだものなんだ。大事にしておくれ」
 折り畳むと、高座でそれを財布に見立てる師匠の姿が蘇った。

 それから心を入れ替え芸の道を突き進む――となればいい話なのだが、人の心はそう単純にはできていない。俺は手拭いを懐に収め、師匠の家の玄関を出る時までは神妙な心持ちだったが、途中で酒を買うや、ホロ酔いで高座に上がってやはりしくじり、アパートに帰ってヤケ酒で自分を慰めるというルーティーンに即座に戻った。
 そのまま寝落ちして、夜中に寒さで目が覚めてクシャミを一発。ちり紙が見当たらないので、懐に入っていた手拭いで鼻をかんだ。

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