小説

『二人羽織』斉藤千(『芝浜(落語)』(東京都))

「お前、緊張してんのか」
 袖で控えていると師匠が言った。もちろん、その姿は俺にしか見えていない。
「俺は元々緊張しいなんですよ。今までは酒が入ってたからどうにかなってたのに」
「どうにもなってなかっただろうが」
 師匠の溜息に出囃子が重なった。出番だ。
「どどど、どうしましょ」
「教えた通りにやりゃ大丈夫だよ」
「緊張で全部抜けちまいましたよ。師匠、代わりに出てください」
「できたらとっくにやってるよ。生憎俺にゃあ体がねえ」
「体なら俺のがあります」さあ、と俺は両手を広げた。
「お前な……」
 後ろから席亭に急かされた。俺も師匠を急かした。師匠は溜息つくと、
「そんなことできるわけねえだろうが」と言いつつ、俺の胸に飛び込んできた。
「……」
「……できた」言ったのは、俺の口だったが俺ではなかった。
「やりましたね、師匠」
「お、おう」
 そこへやって来た席亭に尻を蹴られながら、俺たちは高座へ上がった。

 俺、というか俺の中の師匠は座布団に座り、客席に頭を下げた。顔を上げると、暗い客席には片手で数えられるぐらいの客しかいないのがわかった。
「えー、毎度のお運び――」俺の意思とは無関係に、スラスラと言葉が出て来た。喋っているのは師匠だった。
 客席にはまともに聞いてる奴なんか一人もいなかった。退屈そうに腕組みするか、スマホをいじるか、居眠りするか。蝶福亭全角が喋ってるなどとは夢にも思っていない。やい、今「寿限無」してんの、うちの師匠だぞ。こんなもん、本人が生きてたら絶対聴けねえぞ。俺は胸の中でほくそ笑んだ。

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