小説

『魂の愛』永佑輔(『菊花の約』)

 大村が入れられている取調室にも、翠が入れられている取調室にも壁掛け時計がない。しかし二人は刑事の腕時計が十六時五十分を指しているのを見逃さなかった。待ち合わせの時刻、十七時まであと十分。
 大村は何が何でも翠に会いたい、結婚しようと伝えたい。翠は何が何でも大村に会いたい、もうしばらく距離を置こうと伝えたい。
 大村の体からヒョイと魂が抜けた。造作ない。
 翠の体からもヒョイと魂が抜けた。初心者ながら慣れたものである。
 抜け殻になった大村を見た刑事も、抜け殻になった翠を見た刑事も「何か言え!」と怒り狂った演技をしてデスクを叩き、ほんの少し痛がった。もちろん大村も翠も、うんともすんとも言わない。
 すると、抜け殻となった大村の背後に翠の魂が現れた。同じ頃、抜け殻となった翠の背後に大村の魂が現れた。二人は出会って初めてすれ違い、間抜けた声を出す。
「へ?」
 翠の抜け殻を見た大村も、大村の抜け殻を見た翠も、相手が目の前にいないことに腹が立ってきた。
「ふざけんな!」
 大村の魂と翠の魂は同時に怒鳴った。
 魂を目の当たりにした刑事たちは腰を抜かして言葉が出ない。そのとき、ポスター左上の男が逮捕されたという報せが舞い込む。
 大村も翠も自身の肉体に戻り、晴れて自由の身となった。

 大村が警察署を出ると、翠が待っていている。
 レストランはキャンセル、せっかくのエンゲージリングもお預け、プロポーズもおそらく自宅か車内になるだろう。計画は台無し。大村はどっと疲れに襲われた。
 そんな大村の疲れなんてつゆも気にせず、翠は仏頂面で、
「誠のせいで捕まった」
「こいつのせいだよ」
 大村は重要指名手配犯ポスター、その左上に写っている男を指した。
 翠はかぶりを振って、
「誠のせい」
「俺のせいにすんな」
「アンタのせい」
「ふざけんな」
「バカ」
「アホ」
 二人のケンカが始まった。

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