小説

『恋の名残り』香久山ゆみ(『曽根崎心中』(大阪))

 子どもがいるということは知らなかったが、それさえ乗り越えるべき壁の一つに過ぎない。
「駆け落ちしよか」
 私には時間がない。彼が既婚であることを知ってなお、そう持ち掛けると、彼は申し訳なさそうな顔をした。いいのに。彼に家庭があったって構わない、それを振り切ってこそ、生涯に一度の恋となるだろう。
「行かれへん」
「待ってるから」
 そう言って、次の土曜の昼間に、二人が出会った露天神社での待ち合わせをなかば強引に取り付けた。
 なのに。
 小走りに道を行く。何かを追いかけるように、はたまた逃げるように。銀杏くさい御堂筋を北上する。
 予定が押してしまったのだ。運命を変える大事な日だというのに。
 早く早くあの人のもとへ。黄金色の街路樹の間を走り抜ける。
   ――此の世の名残り、夜も名残り。
   死に行く身を譬ふれば、あだしが原の道の霜。
   一足ずつに消えて行く。
   夢の夢こそあはれなれ。
 息を切らせて神社に至ると、まだ約束の五分前。境内のベンチに腰を下ろす。
 彼が来たら、大阪駅へ行こう。そこからサンダーバードに乗って、北陸へ。私達のことを誰も知らない土地へ逃れよう。それはまるで甘い夢。
 約束の時間になっても彼は現れない。
 五分経っても。十分経っても。境内には女の子達や若いカップルがひっきりなしに訪れる。彼は来ない。三十分。一時間。
 ぼんやりと境内を眺める。昼間見る露天神社は、あの夜とは雰囲気が全然違う。「恋人の聖地」として浮かれたハートがあちこちいっぱいあって、なんやあほみたいやなって。今更ながら自分のことをそう思った。
 恋の炎に身を投じるには、きっと最後のチャンスだったから。
 でも結局、お初・徳兵衛のような命を懸ける恋はできなかった。時代のせいなのか。それとも私が淡白なのか。

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