小説

『恋の名残り』香久山ゆみ(『曽根崎心中』(大阪))

 顔を上げると、さっきの飲み会に参加していた取引先の男性だ。
「こんな時間に女性が一人でいるんは危ないですよ」
 そう言って、私の隣に腰を下ろした。
 とりとめない世間話をした。
「プロジェクトも終わって、もう会うことないのは寂しいですね」
 彼の名前さえ思い出せなかったくせに社交辞令でそう言うと、「俺もですよ」と徳永さんは白い歯を見せて笑った。人懐こい笑顔が素敵だと思った。
 まだ少し足元のふらつく私の手を引いて、徳永さんは夜の街を迷いなく歩いた。
   ――未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり。
 お初・徳兵衛のご利益だろうか。私はその大きな手をぎゅっと握り返した。この人と恋をするのだと思った。

 その夜以降、私達は逢瀬を重ねた。
 ともに大阪の中心地に勤める私達は、仕事終わりには飲み屋で待ち合わせた。
 彼はとても楽しい人で、共通の話題も多かったし、趣味も似ていた。情熱的な瞳を真っ直ぐに私に向けてくれて、足の先まで愛してくれた。
「次の日曜って空いてます?」
「うーん、あかんな。休日出勤で。土曜なら何とかなんねんけど」
「あー、土曜は私の方が……。習い事の関係でどうしても外されへんので」
 運命の悪戯か、休日の予定はなかなか合わなかった。けれど、それさえ特別な恋の証であると思えた。障害があるほど、恋は燃え上がるものなのだから。
「なあ、ハツ。最近取引先の徳永さんと仲良くしてるみたいやけど」
 あんなことがあったにも関わらず、いまだに親友面して探りを入れてくる。「べつに、何もないけど」そっけなく返すと、「そっか」と気まずそうに引き下がる。けれど、そんな横槍だって気にしない。障害は多いほど恋の炎は強く燃える。
 それに、彼女から忠告されなくたって知っている。徳永さんが既婚者であること。彼は隠しているようだけれど、女の勘が気付かぬはずなかろう。
 これは大きな障害だ。彼は妻があるにも関わらず、私を求める。私も彼を。この試練を越えることで恋の極致に至るのだ。

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