小説

『水底のうた』裏木戸夕暮(『大漁』金子みすゞ)

 美鈴は海を振り返った。
「泣き声だと思うから泣き声なんだよね」
「美鈴。自分の名前の由来覚えてるよな」
「え?うん」
「笑い上戸のちっちゃい鈴。星の王子さまだろ」
「そう。孝こそよく覚えてるね」
「無理に笑わなくていいから。なんか出来ることがあったら言ってな」
「・・・うん」
美鈴が足を止め、孝の後ろ姿を見た。
 ヒョロヒョロで頼りない背中。
「どした?」
孝が振り向いて笑う。穏やかな笑顔。弱い者は傷つくと知りながら、弱いまま生きることを
選んだ顔。
「・・ねぇ。私がここから帰る時は、迎えに来てくれる?」
「いいけどあれだぞ。大きな荷物は乗せらんないけど」
「いいの。私さえ乗れば」
「分かった」

 孝は美鈴をカフェまで送った。
「コーヒーでも飲んで行かない?」
「いやー、このまま帰るわ」
「ご実家?」
「アパートの方。実家いたら太るもんで」
「あはは、分かる。あの、孝」
「ん?」
「ありがとう」

 美鈴は暗くなった海を見た。水平線の向こうから夕陽が最後の光を投げかけている。
 幻影が聴こえる。誰も見ない海の底で、何万ものイワシが銀色に渦巻いている。
 渦巻きは声となり、水底から水面へ届く。
 海風が美鈴の髪を靡かせ、貝のような耳が露わになった。
 深く息を吸った。
 波が胸に響いた。

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