小説

『浦芝』太田純平(『浦島太郎』『芝浜』(落語)』)

 もはや妻は、流しに溜まった洗い物をガチャガチャと洗いながら、男の話を片手間に聞いていた。
それでも構わず男は続ける。
「海底に沈んだ俺は、やがて竜宮城に辿り着いた! 門のところに確かに『竜宮城』って書いてあったんだ!」
「あぁそう。日本語で?」
「あぁ、日本語で! それで、その城の中に入った俺は、亀を救った英雄として、大歓迎を受けた! それはもう、飲めや歌えやの大騒ぎだったよ!」
「あぁそう。よかったじゃん」
「それで、俺は竜宮城から帰る時、美しいお姫様から、小さな箱を渡されたんだ! 『決して開けてはなりません』って! もう、まさに、あの昔話――『浦島太郎』のストーリー、そのものなんだよ!」
「で? 結局なにが言いたいの?」
「だから! 俺はその小さな箱を、確かに持ち帰ったはずなんだ!」
「だから、そんなもん持ってなかったって」
「いいや絶対に持って帰って来た! どっかにあるはずだ!」
 男はもはや半狂乱であった。妻が止めるのも聞かずに、家中をひっくり返して、その持ち帰ったという小箱を探し始めた。
「ちょっとやめてよ! 片付けるのが面倒だから!」
「うるさい! あれは絶対に金銀財宝が入った宝箱だ! あれさえあればこんな貧乏暮らしじゃなくて一生遊んで暮らせるんだ! 会社だってもう辞めてやる!」
「ちょっと、やめて! やめてってば!」
 狭いアパートとはいえ、破壊者と化した男のせいで、リビングもキッチンも寝室も全てひっくり返された。その惨状を目の当たりにした妻は、やがて声を震わせながら叫んだ。
「もうやめて! 私のお腹の中にはあなたの子供がいるのよ!?」
 箱を探す男の手がピタッと止まった。妻が妊娠していることを初めて知ったのだ。男が妻を見る。これから母親になる女の顔だ。

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