小説

『腫瘤』加持稜誠(『こぶとりじいさん』(岩手県))

 菅生の目の前には、結婚相手の加奈子が座っている。本来いるべきではないお隣さんから、先程奪い返してきたところだ。加奈子はそもそも素直な女ではなかったので、彼の出迎えを執拗に拒んだ。それに併せて暴れて逃げ惑うので、致し方なく後頭部を殴打せざるを得なかった。少しだけ心は痛んだが、二人の幸せの為だ。暴力も優しさの一つ。

 菅生はまだ目を覚まさない妻の頬を、そっと指で撫でた。ハリのある艶やかな肌が、彼の指に染み込むかの如く吸いついて来る。
 およそ30歳程、歳の離れた二人は、きっと巷では評判の夫婦になるだろう。そして道行く男達は、目の覚めるほどに美しい加奈子に目を奪われ、そして夫である菅生に対して、羨望の眼差しを送るだろう。その男達の悔しがる表情が目に見えて、菅生はにやつきが止まらなかった。
 そして、吸い寄せられるように、妻の唇に自分のそれを押し当てた。それは淡い果実の如く甘酸っぱく、それでいて媚薬のように止めどない欲望を菅生に掻き立たせた。

 陽が沈み始めるころ、菅生は妻と重ね合った体を一度だけ離して、渇いた喉を水で潤わせた。その間でさえ加奈子の肌は菅生を欲していた。その声に応えるように、菅生は顎に水を滴らせつつ、妻の下に舞い戻った。そして今一度彼女の肌に触れようとした、その時だった。

 「菅生さん! 菅生さん!」
 誰かが玄関口で大声を張り上げている。しかも玄関をこじ開けようと、乱暴に鍵口を叩き始めた。
 「加奈子! 無事か?」
 その男の泣き叫ぶ声に、菅生はほくそ笑んだ。
 と、途端に玄関の引き戸のガラスが割れる音がして、男が部屋の中に侵入してきた。菅生は妻を護る為に台所の包丁に手を伸ばした。

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