小説

『岩が落ちたら』Tsukishita(『鯖くさらかし岩』(長崎県時津町))

 故郷の潮の香りなんて、いったい何年ぶりだろうか・・・。空港発の高速船を降りた僕はマスクをずらし、肺にたっぷり空気を流し込んだ。ぼんやりと、人が道を行く音と子どもの声が聞こえる。懐かしい町の雰囲気に安心しつつ、キャリーバッグを引きながらその足で新しい職場へ向かった。
 「長崎の営業所へ応援に行ってくれないか」。3カ月前、申し訳なさそうに部長が告げた。応援と言われると、臨時的にその場をサポートしに行くように捉えられがちだが、僕がいる会社の言う応援は異動を意味し、そして「これ以上の昇進は見込めない」と判断をされたことにもなる。原因はわかっている。市場で業者へ物を売る「セリ人」の資格試験を5回連続で不合格になり、その後は大した営業成績も残さず、ただ何となく仕事をこなしている僕を見かねての判断に違いない。
 地方での人手不足はますます深刻化していて、わが社の子会社も例外ではなかった。地元の水産加工業者としてはそこそこの規模を誇るものの、人材不足や原料の品薄、コストの上昇で稼働率は徐々に低下している。比較的若手で独り身、そして長崎出身と三拍子がそろった都合の良い駒として僕に白羽の矢が立ったのだ。僕は渋々了承したように見せたが、心の中では万歳三唱をとなえていた。実を言うと、馴染みのない関東での生活に飽き飽きしていたところだった。
 新しい職場へのあいさつが簡単に済み、僕は嬉々としてバスへ乗り込んだ。さあ、実家へ良い肉でも買って行くか、それとも同級生の働く店に顔を出して驚かせてやろうか。そんなことを考えながら外へ目をやると、巨大なこけしのような岩が現れた。時津町の名物「鯖くさらかし岩」だ。そうか、この町にはこの岩があった・・・懐かしい記憶が蘇り、気づいたときには降車ボタンを押していた。

 細長い胴体のような岩の上に、じゃがいものようなゴツゴツした岩が頭のようにどっしりと構えている。巨岩であり、不気味な奇岩だ。20年ほど前、この鯖くさらかし岩の頭が落っこちて大きなニュースになった。幼いながらも鮮明に覚えている理由はもちろん、僕の目の前でこの岩が転げ落ちただけではない。不思議な体験をしたからだ。

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