小説

『岩が落ちたら』Tsukishita(『鯖くさらかし岩』(長崎県時津町))

 20年ぶりに間近で見る鯖くさらかし岩は、相変わらず大きくて迫力があった。陽の当たり具合なのか、今にも落ちそうな頭の岩は怒り顔ではなく仏様のように見えた。なんだか良い物を見られたような気がして、スマホを取り出して色んな角度から岩を撮る。
「その岩、もう固定されているから落ちませんよ」。
後ろから声をかけられ、振り向くと小さい女の子を連れた女性が立っていた。
・・・ヒデコ?
僕がたずねると、女性は目を丸くする。10代のころに比べて少しほっそりとしていたが、小柄で幼い顔立ちのその人は間違いなくヒデコだった。
「林君じゃない!帰ってきたの?それとも、これからどこかへ行くの?」キャリーケースと僕を交互に見ながら、ヒデコがたずねる。高校の卒業式以来だろうか。「仕事の都合で長崎に異動になってね。まさに今日帰ってきたんだ。懐かしくなって、この岩に立ち寄ったところだよ」。僕は久しぶりにヒデコに会えた嬉しさと、子どもを連れていることに戸惑いを感じながら積もる話に花を咲かせた。県内の女子大に進学したことまでは把握していたが、それから五島の役場で働いていること、月に1回は地元に帰っていることなど、近況をたくさん教えてくれた。僕はというと、まさか鯖と鯛の見分けもつかなかった奴が水産会社で働いているなんて言えず、食品会社に勤務しているとだけ伝えた。ヒデコは嬉しそうに僕の話を聞いてくれた。
 「林君、SNSとかやってないからさ。何してるのかなってちょうどこの岩見ながら考えてたんだよね。すごかったよね、小3のとき・・・」。ひでこが岩を見上げた瞬間、僕は思い出した。今朝地元に着いた時に聞こえた足音や人の話し声が、鯖くさらかし岩が落ちた後に聞こえたものと似ていたことを。僕は思わず、船から降りた時に聞こえた音のこと、それを妙に懐かしく感じたことなどをヒデコに話した。「もしかして」とヒデコは呟き、表へ出てタクシーを止めた。あわてて僕も付いていく。
 「私、五島で就職してから、そこの文化や歴史についてたくさん勉強したの。五島には隠れキリシタンの通っていた教会が残っててね。色々調べるうちに長崎とキリスト教の関係も自然と頭に入っていたわ。あ、そこの時津港で降ろしてください」。こんなにぐいぐいと動くヒデコを新鮮に感じながらも、それが岩と何の関係があるのだろうと思っているうちに今朝来た港に到着した。
 ヒデコがスマホで地図を見ながらずんずん進み、ぴたりと足を止めた。そこには記念碑のようなものがひっそりとたたずんでおり、「日本二十六聖人上陸の地」と書かれていた。昔、豊臣秀吉によるキリシタン迫害によって26人が長崎で殉教したことは聞いたことがあったが、ここがその上陸地だったとは。「二十六聖人はここに上陸して、市内の殉教地まで歩いて向かったの。・・・林君、何か聞こえる?」ヒデコがたずねる。一生懸命耳を澄ませてみたが、もう弱い波の音と周辺の車の音しか聞こえなかった。
 それから僕たちは何となく気まずくなり、一言二言交わしてお互いの家へと帰った。

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