小説

『夏の夜』平大典(『古事記』)

 俺は何秒間呆然としてのだろうか。

 汗をいくら拭いても身体中がべとついて不快な気分が晴れない夏の夜だった。
 妻と六歳になる息子の俊太を連れて、近所の神社で開催された地区の夏祭りに出かけた。祭りは午後六時から始まったが、七時を過ぎるといよいよ賑やかになってきた。煌々と琥珀色に輝く提灯。浴衣姿の若い女の子たち。タオルを首に巻いてせわしない地区の役員たち。
 参道に沿って立ち並ぶ射的やベビーカステラ、金魚すくいの屋台。鉄板の上にそばが乗せられると、じゅうという音が響いた。
 俊太はあっちやこっちに興味を移し、目を見開いていた。高校時代からの知り合いである妻は、手をつなぐ俊太に引っ張られながら、くすくすと微笑んでいる。
「俊太、なんかやるかい」
「まだいいよ、こうへいくん。あとでやるから」
 耕平は俺の名だ。
 妻と視線を合わせる。俊太はもう少し会場を歩き回りたいみたいだ。
「そっか」
 社務所の近くに設置された小さなステージからは、場違いな洋楽のヒップホップが流れてくる。小学生高学年の女の子がルーズなジャージを着て、切れの良いヒップホップダンスを踊っていた。
「すげえなぁ。俺がガキん頃は、こんなのなかったよ」
 ぼそっと呟くが、反応はなかった。
 異変を感じて振り返ると、妻と俊太の姿がなかった。
 俺は焦って周囲を見まわす。
 しばらく境内を歩き回った。スマホで何度も電話をかけたが、応答はない。屋台を覗いても、二人の姿はない。
 鳥居の辺りまで戻ると、そこに立っていた警備の老人に尋ねた。
「すいません」
「どうしたのですか」
「妻と息子がいなくて……」
 事情を説明したが、警備員には見覚えがないという。冷や汗で身体が濡れていた。
 俺はもう一度境内を歩き回り、やがて、社務所を抜け喧騒を離れていくと、裏山へ続く坂道まで出た。そこは、本殿のにぎやかさが信じられないほど真っ暗で静かだった。生ぬるい風が頬を撫でると、杉の木が呼吸しているかのようにゆっくりと蠢いた。小学生の頃はよく遊びに来たものだが、もはや過去の思い出だ。
 夜空を見上げてみる。木々に向こう側に、無数の星が静かに輝いていた。
 まさか二人きりでこんなほうまで来るはずがないと思ったが、夜明かりの中でうっすらと人影を見つけた。
 俺はその影を凝視して、そして、言葉を失って呆然とした。
 道の真ん中に立って微笑んでいたのは、栄治だった。

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