小説

『浦島君の「う」は嘘つきの「う」』不動坊多喜(『浦島太郎』)

 私が浦島君を拾ったのは、春だった。
 その日、駅から出てきた私にティッシュが差し出された。花粉症の私は素直に受け取り、渡してくれた人の顔を見た。
 すり切れたリュックを背負った小汚い男だった。が、顔が好みだった。
 当時流行っていたテレビドラマや小説にはイケメンを拾う話がいくつもあり、やっと自分の番が来た、そう思った。
 そこで、彼の仕事が終わるのを待ち、声をかけた。
 彼は、「自分はホームレスで、貴方とお付き合いできるような人間ではありません」と辞退したが、「大丈夫。居候大歓迎ですよ」と、強引に部屋に引っ張り込んだ。
 風呂に入り、ひげを剃り、シャツを着替えてさっぱりしたら、思った以上のイケメンだった。
 (やっぱり当たりくじだ)私の心は躍った。

 彼は、自分は「浦島太郎」だと名乗った。
「おとぎ話から名前をもらったの?」
「はい。自分も竜宮城に行ったので、戻ってから、浦島太郎を名乗っています」
 そう言って、彼は語り出した。

 ある日、浜辺を歩いていたら亀にスカウトされました。
「ちょいと、そこのお兄さん、竜宮城で乙姫様と遊びませんか。お兄さんの器量なら、乙姫様もきっとお喜びになりますよ」
 ずいぶん口調の軽い亀だって? 確かに、自分もそう思いました。それで黙っていると、亀が小声で耳打ちしてきたのです。
「実はね、乙姫様は好きだった男に逃げられて泣き暮らしているんだよ。それで、こっちも困っててねえ」
 小さい頃、寺子屋で御伽草子を読んでもらったことがあったので、それが浦島太郎のことだと思いつきました。けれど、口には出しませんでした。
 当時の日本は徳川様の時代で、仕事は親の後を継ぐことに決まっているし、どこかへ行きたいと思っても気軽に旅もできません。
 自由が欲しい。
 これが、自分の一番の願いでした。それで、亀について行くことにしました。
 海の中は苦しくなかったのかって? あそこは多分、異世界です。
 亀の背中に乗って海を渡って行くと、突然大岩が現れて、そこにあるトンネルをくぐりました。入った瞬間、体がぎゅーっと締め付けられ、頭の芯がじんときて、思わず目を閉じました。ほんの数秒でふわっと空気が緩み、痛みも和らいだので目を開けたら、竜宮城でした。
 城は大きくて、中は迷路のようでした。世話係の侍女には「迷子になっては大変だから、風呂とトイレ以外は部屋から出てはいけません」と強く戒められました。
 生活は快適だったのかって? もちろん。乙姫様は美人だし、ごちそうは旨いし、いつまでも居たいと思える場所でしたよ。

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