小説

『夏の夜』平大典(『古事記』)

 境内に戻ると、まだ賑やかなままだった。
「耕平くん」妻が俊太を連れて駆け寄ってきた。「どこ行ってたの」
「いや、その」
 俺が狼狽していると、俊太が顔を見上げてきた。
「ねえ、ぼく、射的がやりたいんだ、父さん」
 一瞬、言葉を失った。
「あ、ああ。行こう」
 俊太は俺の手を掴んで、参道沿いの屋台の方向へ引っ張った。
 一度だけ坂道の方向を振り返ったが、真っ暗闇のままだった。
 俺は栄治に許されたのだろうか。
 前を向き直すと、隣に立っている妻が不意に呟いた。
「警備のおじさんが教えてくれたんだけどね、この神社の神様って鏡の神様なんだってさ」
「鏡?」
「本殿の一番奥にあるのが、魔法の鏡なんだって」
「どんな鏡なんだ」
「え、つまんないよ」妻は表情を崩した。「ありきたりなだけどね、なんでも映したいものを映すとか。昔の人はそれで死んだ家族とか友だちに会っていたんだってさ」
 俺は再度絶句してしまう。
 なんだった。俺が望んだものは。
 死んでしまった栄治に会いたかったのか、俺は。
 それとも、『俺のことを許してくれる栄治』に会いたかっただけなのか。
 あれは本物の栄治だったのか。俺が望んだ虚像だったのか。
「耕平くん、だいじょうぶ?」
「あ、ああ」
「なんか顔色悪いよ」
「……もう大丈夫だ」それしか口に出来なかった。
 不意に、俊太が歩く速度を速めた。
 その手を手放さないように、俊太の手を強く握りしめなおすしかなかった。
 背後からひんやりとした風がすぅと吹いていったが、もう振り返れなかった。

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