小説

『人間ドッグ』高平九(『桃太郎』)

 結婚した年、勇児は本社に呼び戻され営業部に配属された。そして坂田勝のよきライバルとして活躍するようになった。やることなすことうまくいった。勇児は自分が特急列車に変身したことを自覚するようになった。同期の小田はまるで勇児の身代わりのように離島への出向を命じられ、やがて連絡を取り合うこともなくなった。
 勇児は社長になった。そして坂田に社長の座を譲り会長になってからも、政財界の重鎮として君臨していた。自慢できるいい人生だと勇児自身思っていた。

「ところで、1つ聞いておきたいことがあるんだ」
 きぬの細く冷たい手を自分の頬に当てながら勇児は言った。長い間、心の奥に仕舞い込んでいた問いがあった。今さらそんなことを聞くのは恥ずかしいようにも思えたが、ここで聞かなければ2度と聞けないような気がした。
「何ですか?」
「今更こんなこと聞いて恥ずかしいんだが、『人間ドッグ』ってなんだい?」
 きぬの白い顔が一瞬表情をなくした。瞳が60年前の若造の勇児を映してかすかに揺れた。
「いや。覚えていないならいいんだ。変なこと聞いてすまん」
「やっぱりあのこと覚えてらしたのね」
 きぬが笑った。やはり片えくぼがかわいいと勇児は思った。
「そりゃそうだよ。履歴書に『人間ドッグ』なんて書く女子大生は珍しいからね」
「あなた、坂田さんの面接も担当なさったでしょう?」
 勇児はきぬの口から坂田の名が出たことに緊張した。若いころの坂田の精悍な顔が浮かぶ。よくない想像が脳裏に浮かんだ。
「やっぱりやめよう。忘れてくれ」
「坂田さんの履歴書に変なところはなかった?」
「えっ?」
 驚いた。確かに坂田勝も勇児にとって印象に残る受験者だった。それは履歴書の趣味・特技欄に「猿まね」と書かれていたからだ。「物まね」なら分かるが、「猿まね」というのは不思議だった。そうだ。そのことを坂田にいつか尋ねようと思いながら、とうとう聞かずに終わってしまった。坂田は勇児の後で会長職に就き、経済団体の副会長まで務めたが、昨年、くも膜下出血で呆気なく亡くなっていた。
「そう言えば、あいつの履歴書には『猿まね』と書いてあった。でも、その特技は1度も見ることができなかったよ」
「当たり前よ」
「どういうことだい?」
「坂田さんは『猿まね』なんてしないもの」
「えっ?」

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