小説

『金の生る木を植えた男』紀野誠(『木を植えた男』)

「えっ?」そこで背筋が凍った。友人の忠告が頭を過ぎる。まさかもうキャッシュレスが世間に浸透してしまったのか。もう現金は用無しなのか。たった一年で?
「この店はもう現金を取り扱ってないのか?」
「いや、そうじゃなくて足りないんだよ」
 店員は顎で店の壁を示した。壁にはメニューが品書きされている。《刺身定食 八百円》と――おや?
 よく見れば値段は八百円ではなかった。見誤っていた。品書きにははっきりと、
《刺身定食 八万円》と書かれていた。思わず叫んでしまう。
「八万! 刺身定食だぞ!」
「なに言ってんだい。良心的な値段だよ。今時一万じゃパンも買えないんだから」
 続けて店主はこう溜息を吐いた。
「最近物価が上がってねえ。値上げしなきゃやってられないよ。まったく、なんでこんなお金の溢れる世の中になったんだか」
 レジの向こうには店主の私室が見えた。リビングにはテレビや炬燵が拵えてある。窓辺には植木鉢も植えられていた。実は全て捥いであるが見慣れた葉と枝も見えた。
 三十万円程支払ってから店を出た。店頭に立ち尽くし、男は決心した。
「急いで畑を拡充しよう」

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