4年の介護の末、母が死んだ。
親ひとり子ひとりでひとり息子を育てあげた母は、私が15才で家を出たあとも再婚もせずひとりを貫いた。別れた父を想っていた筈はなく、むしろ(私も含めて)男にうんざりしたというのが実情だろう。よもや半世紀近くたって一緒に暮らすことになるとは思わなかったが、お互いの人生を語り合うほどの認知機能は、母にはもう残っていなかった。
母が残したものは、わずかな共済の保険金と私から見ればがらくたにしか見えない雑多な身の回りの品々。それから、小さなジュエリーボックスがひとつ。その他は写真ひとつなかった。これだけでも、なにも語ることなく去った母が自分の人生を(過去を)どう感じていたかは明らかだろう。母の人生をえぐり取ってしまったような私が、人生の後半の数年を母に捧げたからといって、偉そうなことは何も言えまい。
不謹慎ではあるが、母が息を引き取ったとき私はほっとした。ようやく重い荷物を下ろして、人生を再開できると思った。問題はひとり分になってしまう年金だが、ささやかな葬式を済ましても支給された共済の保険金が若干残ったので、しばらくはなんとかなるだろう。それでもひとりには持て余し気味の借家の引越しの準備は進めている。
四十九日を済ませて、五十日目の朝、春間近の穏やかな大気を吸い込んで、生き返ったような心持ちがした。機械的な摂食と排泄の繰り返しと、浅い眠りからくる絶え間ない睡魔と、不意に動き出す物音への恐怖と、定期的に襲う深い絶望感から開放されて、春のようにまた人生が動き出した気がした。
せいせいした伸びをひとつすると、ベットに備え付けの簡易テーブルに置いたままになっていたジュエリーボックスが目についた。母は日に何度も、私の目を盗むようにこの中をこっそり覗いていた。私もこの小さな箱のことは、母に何も聞かなかった。最後に残された母の人間的な部分のような気がして、触れられなかったのだ。
かなりの時間、悩んで、私はこの箱を開けることにした。そうしなければ、いつまでもあの日々が終わらない気がしたからだ。
中には、なにも入っていなかった。外側の装飾からすれば悲しいほど地味な、黒ずんだ木目がそのままの簡素なものだった。蓋の内側には鏡が付いていたが、汚れてまともに顔も映さなかった。
よく見ると一枚だけ、紙片が入っていた。近所の雑貨屋のレシートで、おそらくどこかから紛れ込んだものだろう。古ぼけて黄ばんだレシートの表には、『雑貨』を購入した旨だけ記載されていた。裏には丁寧な字で『古−2 ハル 下84』というメモが残っていた。母の物ではない筆跡のメモに、深い意味など感じなかった。
私は蓋を閉じて、この箱のことはすぐに忘れた。
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不思議なもので、なんの制約もないのに朝は今まで通りの時間に目が覚める。母のおむつの心配も寝返りの介助も必要がないと気付くと、柔らかい朝の光の中さてどうすると途方にくれる。