小説

『年金生活のすすめ』千田義行(『パンドラの箱の物語~ギリシア神話より~』)

 液状にする必要のない朝食は、ただ焼いただけのトースト一枚。ジャムすら無いことに母が死んでから気付いた。ただ流すままにしているテレビに大声で話しかけている自分にはっとして、座椅子と台所と便所の行き来だけで3日も外に出ていないことに愕然とする。立ち上がる度に鋭い痛みが走る膝に動くのが倦いて活動が緩慢になり、日がなベットから起き上がらずに過ごすことも増えた。
 窓の外の遊歩道の桜の木にぽつんと一輪花が開いたのを見て、カレンダーを確認すると年金の支給日だった。
 久しぶりに外に出るとなると、なぜか少し緊張した。ほとんど着っぱなしのスエットは脱いでみると尻が擦り切れて穴が空いていた。ほぼ一ヶ月ぶりに鏡に写った自分は、白黒まだらなひげと面積が少なくなった割に伸び切った白髪姿で、落ち武者のようだった。ひげを剃り落とすとたるんだ頬、生気のない目、隙間のあいた歯。見るも無残だ。
 年金によって生きているのか生かされているのか、分からない。うめき声しか挙げなくなった母の最後の数週間を思い出して、ぞっとした。自由になったと思っていた私は、その実、この世に寄る辺のなくなった生ける屍と同じだったのだ。

 郵便局に行く前に散髪をして、まがりなりにも見られる姿になり、金を受け取ったあとスーパーで買い物をした。便利なもので買ったものは自宅まで届けてくれる。冷凍食品と飲み物を買い込み、住所を知らせて外出は終わりだ。
 家の前まで続く遊歩道はもうすぐ桜の花で埋め尽くされるだろう。一年でこの時期だけ賑やかになる。母もなぜかこの時期だけはっきりしてきて、「桜を見に行くわよ」などと言って、よく私を驚かせた。
 帰り道の途中には、小ぢんまりとした居酒屋がある。私の同級生が50になって始めた店で、母の元に戻ってからその事を知った。介護に疲れた夜、母の眠るわずかな時間だけ訪れて、昔し話をして帰る。唯一の救いのような場所だった。そこにも母が死んでから、なぜか気後れをして足が遠のいていた。今日も店内のほのかな灯りを感じながらも素通りした。
 アパートに戻ると、部屋の前をウロウロしている女がいた。着ているジャンパーからすると、スーパーの配達員だろう。私の顔を見ると「早すぎました」とぺこりと頭を下げた。40くらいの人だろうか。私の目からは弾けるように若い。
「いつもの人は」と私がきくと、彼女は「免許返納で」と言いながら、荷物を持ち上げた。
「どこ置きます」
 少し気圧されて部屋の中に通してしまった。以前の配達員は、アパートの前まで来ると警笛を鳴らしてくわえタバコで待っていた。顔面しわくちゃのじいさんで、配達してもらうこちらが申し訳ないくらいだった。
「素敵ですね」と彼女が言ったのは、壁に貼ったローランサンの女の絵だ。母がカレンダーを切り抜いて貼った、額もない、取るに足らないものだ。
「奥さん?」と言われ、咄嗟につい「ええ」と答えてしまった。でもなぜかその後すぐに「もう、死んで」と取り繕うように言った。 私はこの歳まで未婚だ。どうも調子がおかしい。
 彼女は「すいません」と首をすくめたが、すんなり帰ろうとせず、今度は母がまだ元気な頃に下駄箱の上に飾っていた数本のワインの空き瓶を見つけた。
「お詳しいんですか」
「まあ、人並み程度には」嘘だ。私は焼酎しか飲まない。

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