小説

『年金生活のすすめ』千田義行(『パンドラの箱の物語~ギリシア神話より~』)

「今度、教えて下さい」ええっと、と伝票を見て「菅原さん」とにこりと笑った。
 受け取りにサインをすると、彼女は車に戻った。振り向きざまに手を振られたので、手を振り返した。人に手を振るなど、いったいいつ振りだろう。どうも、調子がおかしい。

 それから私は、水をよく飲むようになった。米も買った水で炊き、母が植えた観葉植物にもペットボトルから水をやった。そして水がなくなる度、スーパーに出掛けるようになった。
 藤原は、「老いらくの恋か」と言って笑った。例の居酒屋の同級生だ。
「そんなんじゃない」とふくれっ面をしてみても後の祭りだ。藤原のにやけた顔はいよいよ毒味を増して、私がさっき注文をした菜の花のおひたしのことも忘れているらしい。
「でもな、気を付けろよ。特に今はお母さんの介護から開放された反動で突っ走りかねない。ほどほどに愛さなくっちゃいけないって寅さんも言ってたよ。年寄りの冷水は見てて情けねえ」
「バカなことを言うな、この歳になってなにが恋だ。下らない」
「こちら、20年もののブルゴーニュでございます」一升瓶を恭しく見せながら藤原が言った。私がぺちんとその瓶をはたくと、 藤原は大笑いをした。まあまあ怒るなと言いながら、きれいに盛り付けて糸がきをちょんと乗せたおひたしを出した。忘れてはいなかったらしい。
「その子なら、桜の遊歩道の雑貨屋の娘だ。だんなと別れて最近戻ったらしい」毒気が抜けた顔付きで言った。視線は手元のまな板に落ちている。小刻みに心地いいリズムで包丁の音がした。「だけど菅原、嘘はいけねえよ。すぐぼろが出る」藤原はさっぱりと笑った。

 古ぼけた雑貨屋は、五分咲きの桜の下にあってもあまり入りたいとは思えない雰囲気だった。花見ついでの散歩客が増えていたが、目にも入らないのか誰も顧みることもない。
 中に入ると急に光量が減って、目が慣れるまでしばらくかかった。
 埃の匂いと、漆喰壁の冷たい空気。2列の陳列棚と、奥にレジカウンター。売っているのは洗剤や石鹸、文房具と電球や蛍光灯。壁際には竹箒やバケツといった物が整然と並んでいて、入ってすぐ左には懐かしいアイスのショーケースが置かれ ていた。まるでタイムスリップしたような不思議な感覚に襲われた。
 レジには彫像のような老人がひとり座っていた。頭は禿げ上がり白いあごひげを伸ばしていて、寺の住職か昔の軍人のような風貌だ。藤原の話では、彼女の父親らしい。
 手近な乾電池を適当に手に取って、レジに向かった。レジの奥に居住スペースがあるようだが、人の気配はない。老人は、いちいち大げさな音を出すレジからレシートを引きちぎるように取ると、お釣りと一緒に私に手渡した。レシートには『雑貨』と書かれていた。

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