ここまで来ておきながら、なかなかチャイムを押す勇気が出なかった。思えば名目上はお見舞いなのに、手土産の一つも持って来ていない。彼氏でもないのに、俺は一体なんなんだ。ストーカーか。だいたい仮に空音がアレに感染していなかったとしても、高熱は高熱なんだから、そう軽々に玄関に出て来られるわけないじゃないか。ああ。俺はバカか。
なんてことを頭の中で何度も何度も繰り返して、だけど「このまま帰った方が傷つかないで済むな」なんて考えている自分が嫌で――。
それでも逡巡して――うろうろして――ああもうダメだ、このままじゃただの不審者だなって思って帰ろうとした時、二階のカーテンがシャーッと開く音がした。ハッと反射的に見上げると、窓越しに、坂下空音が立っていた。アイスキャンディ―を舐めながら。
彼女の眼が驚きから笑いへと変わり、窓を開く。
「なにしてんの?」
開口一番、彼女が言った。この距離なら充分過ぎるほどのソーシャルディスタンスだ。
「え、いや、その、たまたま、営業で――」
我ながら支離滅裂な言動だった。なんだ営業って。俺は人事だ。
「なに? アイス?」
照れ隠しで、話題をアイスに振った。
「チョコミント」
「いや、味じゃなくて、なんで、アイス食ってんのって――」
「え、暑いから。ヤバくない? 外」
「いや、まぁ、暑いけど……」
「……」
思うように会話が弾まない。せっかく会えたのに。この距離間のせいだろうか。いつもは平気なのに妙に沈黙が気まずくて、気まずくて――。
「じゃあ……俺、帰るよ」
「えッ?」
「顔見れたし、思ったより、元気そうだから」
「ウン、元気元気」
「それに、たまたま寄っただけだし」
「ウン」
「大丈夫なんでしょ?」
「え?」
「アレじゃないんでしょ?」
「分かんない。検査結果待ち。でも熱は下がった」
「何度?」
「37」
「あぁ、じゃあ、大丈夫じゃん」
「ウン」
「よかったな」
「ウン」
元気だと分かればそれで良い。それに熱は熱だ。万が一ということもあるし、長居は無用だ。
「じゃあ……検査の結果出たら、課長に、電話で――」
「ウン。分かった」
「じゃあ、お大事に」
手を振って、立ち去ろうとした。
背中越しに「ねぇ」と彼女の声がする。
振り返って「ん?」という顔をする。
「わざわざ、来てくれたの?」
「まぁ……たまたまね」
「ふ~ん……」
彼女は続けて何かを言う代わりにアイスをガブッと食べた。キーンと冷たそうな顔をする。その様子に思わず笑みが零れる。やっと素直に笑えた気がした。彼女も微笑み返してくる。頬に含羞の色を浮かべて。
強いて言うなら、これが俺と空音が付き合うことになった馴れ初めである。