小説

『空音』太田純平(『琴のそら音』)

 どうしよう。追いかけようか。いや、相手も仕事中だ。それに無関係の人間に空音のことについて訊くのは何だか憚られる。はぁ。段々イライラしてきた。もはや俺の脳内メーカーは、坂下空音が100%だった。
「課長」
 プツンと糸が切れたように勢いづいて、俺は課長のデスクの前に立った。
「ん?」
「坂下から連絡ありました?」
「何が?」
「いやあのぉ、検査の結果とか――」
「無い」
「……」
 使えないおっさんだ。とはいえ課長に連絡が無いということは、やはり、彼女がアレに罹ったという情報は眉唾なんじゃ――。
 ちょっぴり安心して自席に戻ろうとしたその刹那、ふと、緊急時の情報収集用に設置されている無音のテレビに目が留まった。占いをやっている。映像に少し遅れてテロップが出る。7月生まれの人のラッキーカラーは紫だそうだ。無意識的に空音の誕生日は8月だと頭に浮かぶ。
「ゴメンなさい。今日最下位の人は8月生まれのあなた。思わぬ病気や事故に遭ってしまうかも(泣)」
 そう表示されたテロップを見て心臓が止まった。た、たかがテレビの占いである。人の一日を12通りに分けるなんて実に狂気じみた話だ。し、しかし、偶然にしてはあまりにも――。
 はぁぁぁぁ。長い溜息を吐く。これ以上は心がもたない。もうダメだと思って、俺はパッとオフィスを飛び出した。午前は特にこれといった仕事の予定は無いし、どっちみち仕事にならない。
 俺は本社ビルを抜けて駅に向かった。だいたい二時間もあれば、彼女に会って帰って来れるだろう。もし彼女がアレに感染していたらそもそも会えない、なんていうまともな考えは電車に乗ってから頭に浮かんだ。
 彼女が住んでいる実家の最寄り駅に着いてから、自分の無鉄砲さを知った。詳しい住所を調べずにここまで来てしまった。とはいえ人間には知恵がある。
「アタシ駅二つ使えるんだよね。家がちょうど駅と駅の間にあるからさ」
 何気ない普段の会話の中で、確かに彼女はそう言っていた。「最寄りのコンビニはセブンイレブン」とも。俺はスマホを使って見当をつけ、歩き始めた。
 郊外らしく住宅地が目立つ。長い坂があって、その道に沿うように団地が続いている。
「ウチまで階段がキツいんだよねぇ」
 ふと彼女の声が蘇った。そうだ。確か彼女は階段がキツいと言っていた。そのせいで太ももがパンパンになると――。
駅と駅の間、コンビニ、キツい階段、そして「坂下」という名字。この四つのヒントとスマホを片手に、歩いて、歩いて、歩いて――。
 初夏の暑さでビショビショになりながら、ついに、絶対にここだという一軒家を見つけた。白い壁面の二階建てである。彼女のキャラクターを考えるとだいぶ落ち着いた家だ。
「さて、と……」

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