小説

『空音』太田純平(『琴のそら音』)

 会社の受付嬢が38度の熱を出して休んだ。ただこれだけの話である。しかし今のご時世が――高熱を出す新型のウイルスが蔓延している昨今の事情が、たった一人の欠勤に物語を与えた。
 あれは朝、いつものように会社に出勤してきた時のこと。
「おはようございま――」
「お前聞いた?」
 藪から棒に課長が尋ねてきた。何のこっちゃ分からないから、とりあえず「ハイ?」と愛想笑いのおまけを付けて返すと、課長は「ったくよぉ、朝っぱらからよぉ、電話掛かってきてよぉ」といつもの調子で愚痴を言った。なんでも受付嬢の坂下空音が38度の熱を出して休んだという。
「もしアレだったら俺たち全滅だよ全滅」
 課長はそう言い残してタバコを吸いに行った。アレとは「もし新型のウイルスに感染していたら」ということだろう。
 俺は自分のデスクについて空音のことを想った。
 ここは、とある上場企業の本社ビルである。18階建ての高層ビルには、親会社の他に、我々のような子会社が幾つか入居している。うちの仕事はビルの管理全般で、警備や設備関係、受付や清掃などが主な業務内容である。
 俺はそこの人事担当で、坂下空音の採用にも携わった。だからというわけではないが、彼女との距離は近い。朝、会社のエントランスで顔を合わせれば、「おはようございます」ではなく「おっす」と言われる。あっちは24でこっちは30なのに。彼女はよく笑う子で、こっちもその気になってジョークばかり飛ばしていたら、いつしか「さん」付けから「ちゃん」付けに格が上がった。下がったのかもしれないが。昨日の夕方なども「明日休憩何時?」「12時」「じゃあ昼どっか行くか」「オケ」なんて具合にランチの約束をしたばかりである。受付はローテーション勤務だから、日によって休憩時間もまちまちなのだ。
 それがここにきて、欠勤である。もしかして俺とのランチが嫌で休んだのかと弱気になったりもする。俺は結構、空音にお熱だ。そのくせ人事だからとか、歳が離れているからと言い訳をして、いまだにデートの一つも誘ったことが無い。
「おはようございます!」
 警備員の中川さんが新聞を持ってオフィスに入って来た。新聞なんて朝出社して来た誰かが郵便室に取りに行けばいいのだが、慣習というやつか、うちの会社だけは毎朝、警備員が持って来る。元自衛隊の中川さんは持って来た新聞を所定のラックに置くと、「失礼します!」と気合いの入った挨拶をして出て行こうとした。その背中に、軽い挨拶のつもりでちょっと牽制球を投げてみる。
「坂下、休みっすね」

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