普段は話し掛けて来ない俺の言葉に中川さんは動揺したのか、「は、はい?」とびくびくしながら振り向くと、「あ、あぁ、坂下さん。えぇ、そうみたいですねぇ」と極めて柔らかい物腰で答えた。
「なにせ、39度の熱ですもんねぇ」
言い残すようにそう言って、中川さんは去って行った。
思わず「39度?」と眉を顰める。課長の話では、確か38度だったはずだ。シャワーの温度ならまだしも、人様の体温となると一度の差は――。
「失礼しまぁ~す」
今度はオフィスに受付嬢の田所が入って来た。ガリガリの無神経な女だ。何かにつけてオフィスに入って来ては、お茶請けのお菓子やお土産を無言でパクっていく。確かに「ご自由にどうぞ」と書いてはいるが、こうも気軽にパクっていく契約社員がいるとは驚き桃の木である。
「空音ちゃんどうでしたぁ?」
うなぎパイをパクりながら田所が言った。語尾を伸ばすところが生理的に受け付けない。とはいえ嫌いだからといって無視するわけにも――。
「いや、まぁ、熱が出たって事くらいしか――」
曖昧なトーンでそう返事をすると、田所はまだ開封されていないクッキーの袋をがさがさ開けながら、「え、だってもしアレだったら、私たち全員濃厚接触者ですよねぇ? 会社としてヤバイんじゃないですかぁ?」と言った。俺にはその言い方がどうにも「早くあの女の具合がどうなってるか確認しろよ」という圧力に聞こえたので、図らずもムッとした。会社じゃなかったら殴っている。
――いや、物は考えようだ。ここは田所のプレッシャーに屈して、空音に電話をしてみるのもアリかもしれない。想い人に電話をする大義名分というやつだ。
「あぁ……まぁ……じゃあちょっと、確認してみよっか」
俺はサイコパス女にそう返して、電話の受話器を取った。
トゥルルルル。
トゥルルルル。
――出ない。
六度目のコール音が鳴り止んだところで電話を切った。結果を正直に田所へ告げると、彼女は「あそうですか分かりましたぁ」と息継ぎもせずに答えてスッといなくなった。追いかけて廊下で殴ってやろうか。
いや、それにしても空音のことが気がかりだ。電話に出なかった。留守電にさえならずに。病院なのだろうか。それともやはり39度以上の重症で――。