小説

『空音』太田純平(『琴のそら音』)

 もやもやした気持ちのままパソコンでメールチェックを始めた。しかし全く内容が頭に入って来ない。気付けば全部既読になっていた。いかん、これじゃあ仕事にならんと思わず席を立つ。
 トイレに入って、顔を洗った。
「あら」
 しわがれた声がしたので洗面台から顔を上げると、鏡越しに清掃員の奥村さんと対面した。彼女は50手前のおばさんで、あだ名はボス。
「坂下ちゃんアレだって?」
「ハイ?」
「受付の坂下ちゃん。アレに罹っちゃったんでしょ?」
「!?」
 ぎょっとして、思わずハンカチを落としてしまった。
「ついにって感じよねぇ。怖いわぁ」
そう言ってボスは掃除用具入れをがさごそ漁り始めた。
 思わぬ情報に頭がパニくる。39度の高熱どころか、彼女がアレに感染――?
 矢も楯もたまらず、俺はボスに教えを乞うた。
「ボ――あ、お、奥村さん」
「ん~?」
「さ、坂下がアレに罹ったって、一体、誰情報で――」
「なになに?」
「だから、その、彼女がアレに罹ったって、一体、誰に聞いたんです?」
「あぁ。ほらあの人よ。物流管理の――ほら、あの、タヌキみたいな人」
「桂木さん?」
「そうそれ」
「……」
 呆然と立ち尽くす俺を尻目に、ボスは小便器前の床清掃を始めた。邪魔しちゃ悪いとすぐに廊下へ出る。ボスが言った物流管理というのは、この本社ビルの納品などを取り仕切っている部署のことである。そこの責任者に、桂木さんというベートーヴェンみたいな髪型のおじさんが居て――。
「あっ」
 思わず声が出る。オフィスに戻って来るなり、なんと目の前に、噂の桂木さんが立っていたのだ。
「お疲れさん」
「お疲れ、様、です」
 我ながらたどたどしい挨拶を返す。なんというタイミングだろう。まるで空音の情報を届けに来たといわんばかりだ。ところが彼はすぐに「なんだよぉ。これ15階じゃなくて12階だよぉ。どうやったら間違えんだよぉ。なんだよぉ」とぶつぶつ言いながら、持って来た郵便物の束と共にせっせと廊下へ消えてしまった。

1 2 3 4 5