小説

『煙と消える』はやくもよいち(『子育て幽霊』)

彼はまるで、はたかれたように手で頬をおさえ、目を見開く。
どうして桜が怒っているのか、理解できないようだ。
呆然と立ち尽くしている。
桜は知代の後を追った。
智司は追い掛けてこない。
彼女は振り向かなかった。
坂道の上に入道雲が聳え立っている。
桜は足を踏み鳴らし、嵐に向かって突き進んだ。

見るはずだった映画が始まる時刻、桜は古い蔵を改装したカフェで抹茶フラッペをつついていた。
向かいの席には智司の母、直美がいる。
「知代さんは智司を産んだ、実の母親。20年前、事故でお亡くなりになったの」
「美園知代が智司のお母さんだ、と言うのですか」
ふだんの桜なら、「冗談ですよね」と、声を上げて笑うところだった。
だが桜は知代を追っているうちに、ありえないものを見ていた。
「あるはずのものが、見えなかったんです」
7月の太陽がまばゆい光を投げかけているのに、知代には影がなかった。
「幽霊、ということですよね」
おそるおそる彼女の後をつけていくと、坂を下りてくる日傘の女性に会釈した。
相手も頭を下げる。
短い言葉を交わして、ふたりは別れた。
桜は立ち止まって、知代の知人が通り過ぎるのを待つ。
ところが日傘の女性は彼女の前で足を止めると、声を上げた。
「桜さん? 智司は一緒ではないの」
日傘の女性は、直美だった。
桜は返事に困った。
正直に、「あの優柔不断男は捨ててきました」とは答えられない。
智司の母親は、不思議なことを聞いてきた。
「もしかして、知代さんが見えるの? デートの邪魔でもされたのかしら」
当たりだ。
体が震え出し、夏なのに歯が鳴った。
そのあと直美に、「今、ちょっといいかしら」と、ここへ連れて来られたのだ。
智司の母親は水ようかんを口に入れると、目を細めた。
「誰にも言えずにいたことを話し合える相手ができて、嬉しい」
「美園知代は幽霊であり、彼の幼なじみである、ということですか」
「智司を産んだ母親の名は、知代。結婚前の名字が美園なの。亡くなった知代さんが、智司の幼なじみを装っているの」

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