小説

『灯』森な子(『高浮彫桜二群鳩大花瓶』)

「わからない。でも、とても優しくて寂しい生き物に命を助けられたんだ。海も見たでしょう、大きな鳥。俺はね、森で育ったんだ。海と海のお父さんが訪れた森と同じだけど、目に見えない線のような、もしくは霧のようなもので区切られていて、その向こう側で暮らしていた。いつも遠くから見ていたんだよ、海のこと。君と僕が、お互い小さな時から」
「そうなの? 私、全然気が付かなかった」
「いつか君と友達になりたいって、ずっと思っていたんだ」
 きらきら光る街灯りの中で、灯くんの存在は切って張られたように不自然に見える。私でさえこんなに違和感を感じているのだから、当の本人はもっと落ち着かないだろう。
「それに、人の世界はあまりに音がたくさん溢れていて、わからなくなるんだ。どの音を聞けばいいの? 皆、どうやって選択して生きていくの? 関係ないのに、何故俺に構おうとするの? 親切心で近づいてくる人とそうじゃない人の違いはすぐわかる。ねえ海、俺変なこと言ってる? 俺の選択は間違ってた?」
 振り向いてこちらを見る灯くんの、やはり縋りつくような目があまりに真剣で怖くて、私は圧倒されてしまった。灯くんにはわからないことがたくさんあるのだ。そしてその答えを誰かに教えてもらいたがっている。
「灯くんがした選択、間違ってないよ」
 私はなるべく落ち着いた声色を心がけて声を絞り出した。気持ちに反して声は少し震えていた。
「何故そう言い切れるの?」
「だって、私と友達になりたかったんでしょ。それで今、友達になれてる。ほら、大成功じゃない」
「……海が、歩いていたのが見えて、話してみたいって、そう思ったんだ。それで、決して超えてはいけないよって言われていた線を、俺は越えた。言いつけを破ったんだ」
「じゃあ私のせいでもあるじゃない。ねえ灯くん、ゆっくりでいいよ。ゆっくりでいいから慣れてみようよ、新しい暮らしに。そりゃ、森に比べたら雑音は多いし街灯りは眩しいし、はじめは大変かもしれないけれど。それで、もし駄目だなって思ったら、森に戻ればいいのよ」
「森に、戻る?」
「うん。小屋か何かを作って、そこで暮らすの」
「……そんなこと、していいの?」
「えっ、いいでしょ。しちゃいけない理由がないもの」
 灯くんは何か言いかけて、やめた。それからしばらく迷ったようにした後、
「……うん」
 と言った。だから、うん、ってなんだよ。私はなんだか笑えてきて、「ほら、もう帰ろう。お腹空いたでしょう」と小さな手をとった。
 灯くんの正体を皆が知りたがっている。悲劇的な何かが起こった可哀想な、あるいはスピリチュアルな何かに助けられた奇跡の男の子であることを望んでいる。そういう大きな出来事や、到底理解の及ばない何かがあるということが求められている。
 疑問が浮かべば指先ひとつで瞬時に答えが得られる世界で生きる人々にとって、謎めいた要素の多い灯くんの存在はいっそ気味が悪く感じられるだろう。

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