小説

『灯』森な子(『高浮彫桜二群鳩大花瓶』)

 灯くんはそれから少しずつ、本当に少しずつ新しい暮らしに慣れていった。結局、彼が何者なのかはわからずじまいだった。眩暈がするほどのたくさんの憶測が日本中、いや世界中に飛び交った。生まれてすぐ誘拐されていた子を、育てきれなくなった誘拐犯が解放しただとか、怪しい教団か何かが彼を閉じ込めて非人道的なことをしていたのだとか、とにかくもう、いろいろ。よく皆そんなに色々想像できるなあ、と感心してしまうほどだ。
 当の灯くんといえば平和なものだ。毎日ぼんやり空を見たり、森を歩いたり、本を読んだり。世間の話題の中心にいるのだということをまるで理解していない。けれどそれでいいのだ。灯くんは私と私の父と、担当のお医者様意外と口をきこうとしない。口がきけないとか緊張しているとかではなく、必要がないから話さない、というような態度だった。
 時間が経つにつれて、新しい話題を提供しない彼から世間の興味は薄れていって、穏やかな日常が訪れようとしていた。
 ある日私は、灯くんの強い希望で横浜の大きな美術館へ来ていた。どうしても見たい作品があるのだという。灯くん、芸術とか興味あるんだ。なんて呑気なことを考えながら、付き添いでついていった。美術館なんて、はじめて来た。ちょうど企画展がお休みで、美術館に常設されているコレクションだけが観覧できる日だったので、お客さんはまばらだった。つい一週間程前まではモネだかゴッホだかピカソだかよくわからないが、とにかく有名な作家の企画展がやっていたらしい。
 灯くんはひとつの壺の前でじっと立ち止まった。その壺は不思議なことに、壺なのに彫刻品だった。鳥や花や木が、壺の守り神みたいに浮き出てこちらを睨んでいる。灯くんは何かを探すようにずっと、本当にずっと、何時間もその壺を眺めた。
「灯くん、その壺気に入ったの?」
 声をかけても何も言わない。私は段々くたびれてきて、「外の喫茶店でジュース飲んでるからね」と声をかけて彼の傍を離れた。結局灯くんが壺の前から離れたのは、閉館のアナウンスが流れ始めた頃だった。
 もうすっかり日の暮れた横浜の街を、二人でとぼとぼと歩く。言葉にせずとも、灯くんが傷ついているということが何故だかわかった。
「本で写真を見たんだ」
「え?」
「あの壺。俺みたいだって思った。鳥と木と花に守られていて。だから、実物を見たら何かわかるかもって思ったんだ」
 灯くんの言葉はどこか断片的でわかりづらい。でも、何か大きなものに打ちのめされて悲しい、苦しい、どうしよう、という感じが声からひしひしと滲んでいた。
 眩しいくらいの建物の灯りの中で、喧嘩に負けた犬みたいにしょんぼりと立ち尽くす灯くんの後ろ姿が本当に悲し気で、私はなんだか切なくなってしまった。彼が何か、もう二度と取り戻せない大きなものを恋しく思っているということがよくわかった。
「ねえ海。人の世界は、夜なのに何故こんなに明るいの? ちかちかして頭が冴えて、なんだか俺怖いんだ。だって、夜が暗いのは神様がそう仕向けたからでしょう。何故皆抗おうとするの?」
「灯くんは、神様に会ったことがあるの?」

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