小説

『灯』森な子(『高浮彫桜二群鳩大花瓶』)

 私はしばらく迷ってから「……行く。会いに行く」と父に言った。会ったところで何ができるかはわからないが、でもあの時出会ったあの鳥の、意味深な頷きを思い出したら、そうしなくちゃいけないような気がしたのだ。
「そうか。じゃあ、今日学校が終わったら行こう。迎えにいくから、正門の所で待っていてくれるか?」
「うん、わかった」
 入学したばかりの中学校。その日の授業中、私はずっと、あの霧深い森で男の子を見つけた時のことを考えていた。あの子は、あの鳥は、何者なんだろう。私はいったい、何を見つけてしまったのだろう。
 あっという間に訪れた放課後。ドキドキしながら病院へ向かった。案内された病室は、私の想像に反して全然“普通”だった。もっと、窓に鉄格子がついていたりするのを想像していたのだ。けれど、知識の中にある病院の病室と何ら遜色ないその様子に肩の力が抜けた。
「こんにちは」
 声をかけると男の子はじっと私を見た。はじめて見た時は乱雑に伸びていた黒い髪は、ばっさり切られている。そして、髪が短くなったことによって、その顔立ちがよく見える。意志の強そうな力強い眼差し。瞳の奥に、炎が燃えているような気がして、私はたじろいだ。
 病院の寝間着の上に、私があげた灰色のパーカーを羽織った彼は、私の中に眠る何かを探すような、いっそのこと縋るような目でこちらをじっと見つめてきた。私はその視線に耐えきれなくなって、「あなた、名前は? 言葉を話すことができないの?」と声をかけた。返事は返ってこない。
「……何か、誰かに酷いことをされたの? お父さんや、お母さんはどこ?」
 相変わらず返事は返ってこないが、視線だけは力強くこちらを向いている。
「……名前がないなら、私がつけてあげようか?」
 そう訊くと、男の子は確かに、びっくりしたような表情になった。反応を示したということは、こちらの言葉の意味が、理解できている、ということだ。これには私より、近くで静かに見守っていたお医者様の方が驚いたようだった。
「あなたの目、炎みたい。だから、灯っていうのはどう? あ、ええとね、文字にすると、火の横に丁って書くのよ」
 背負っていた学校用のリュックサックからてきとうにノートを取り出して文字を書き、「ほら、これ、あなたの名前。どう?」と訊くと、男の子はしぱしぱと数回瞬きをした後、じっとこちらを見て、
「……うん」
 と言った。うん、ってなんだろう、と思ったが聞かなかった。ただ男の子――灯くんが、文字を書いた数学のノートを物凄く強い力で握って離してくれなくなったので、泣く泣く手放すことにした。先生にどう説明しよう。頭を抱える私の知らないところで、大人たちは大騒ぎだったようだ。

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