ぶほぶほっと呼吸する。ぜぇぜえ肺が泣いている。死ぬんかな? また? 結局、ペテロもヤコブもヨハネもアンドレもトマスもいろいろいたけど、みんな嘘つくの上手やったって思いだけが、頭にうかんで、ぼほっぼほっ、泳がれへんかったこと忘れて、必死でもがいてたら、サーフボードとぶつかった。
大丈夫っすか? 頭とか打ちませんでした?
こぎれいな青年。全身日焼けしてて、真っ白い歯が唇の間からちろちろみえる。でもこのこぎれいな青年は、見てはいけないものを見た眼で、あぁおじさんあっちの人って指をさした。清潔に切り添えられた爪があっちを指している。
こんもりとした林のような場所を指し示しながら。気を付けてよ。ちゃんと前見て泳いでよまだ春の海は冷たいから。ってさっきと語尾が違う。ちょっとっていうかだいぶ俯瞰されてる感じが、若干かちんとくる。
岸の方では漁師らしき人が、網の繕いをしてる。
今、目があったけど、知らんふりしたね。あなた溺れていませんよね。
そういう恰好で泳いでるの趣味ですよね。そういう視線。
そういやペテロもシモンも貧しいフィッシャーマン。あいつらはすごすごと逃げたよね。みんな慕ってるふりはめっちゃうまかった。魚獲るよりもずっとうまかったと思う。なにかにとても向いてるってことは、ときとして罪深いね
とかいってみたりして、ぶほほっ。
やっと足がついた。わたしたちは罪深きにんげんですって、そういうフレーズがちょっと懐かしい。みんなじぶんの弟子っこたちが、声そろえて言う時の、甘美な感じ。
<主はみなさんとともに>。ってじぶんが言うとみんながイエス様と共にって、口をそろえて答えてくれる。このレスポンスいうのはやっぱり大事。ときに、蜜でもあるし、毒でもある。
凪だった水面が乱されてゆらめく。もとあった水面の場所にもどろうとする時やむを得ず生じてしまう波。波に身をゆだねる。ゆだねている時のぜったい的な信頼。今、じぶんは信頼しているのだこの波を。あの日失った信頼やら友情や恋情に似たなんやかんやを取り戻すように。落ち着いてきたわ、呼吸。カムダウン。
みずがはじめて、ゆびさきに触れても、ぬるく感じるほどだった。
<海 それは個人の記憶を超えでて、種としての記憶が甦る場所である>
ということばを思い出し、海に思いを馳せてみる。
胎内の記憶はないはずなのに、みんなどこかで海の記憶を携えながら生きているのかもしれないのだと、受け売りで説教したあの日が甦りそうもなった束の間、波のなかに消えてゆく。
じぶんの身体から水が滴る。
あたりまえのように海はそこにあって。
それは憧れのようでも、祈りのようでもあって。
波をみていると、どこかなにかの調べのようにも感じてくる。