小説

『一寸法師、見参』柿ノ木コジロー(『一寸法師』)

 大きなため息がひとつ、狭い浴室内に響いた。
 ぱちゃんと湯がはねる音が続き、あとは、浴室はしんとしている。

 山辺は小窓からの景色をぼんやりと眺めていた。

 ルーバー窓のガラスはいっぱいに開けてあって、隙間からは目線より少し下に黒々とした木立が、その合い間、なだらかな傾斜にいくつも家いえの屋根が下りながら並ぶのが見えている。

 ブルーマウンテンヒルズの中でも、山辺の家と周り数軒はかなり古い部類に入る。
 もともと彼の家のあたりは、最初のモデル分譲地として拓かれた土地だった。
 それもあって、現在のヒルズの中ではかなり山よりの位置だ。土地も、山の中に喰い込んでいる。家の脇を流れるのも、用水路というよりは、以前は好き勝手に流れていた山の沢を無理やりコンクリートで固めただけの、単なる川だ。
 その川の水は今日はかなり濁り、水位も高い。
 風呂の中からは見えないが、浴室外壁の下、護岸の上限ギリギリ近くまで達し、ごうごうと音を立てて流れ下っている。
 浴室にもかすかに音にならない振動が伝わっていた。
 雨はもう小止みになっていたが、水は全く引く様子がなかった。

 山辺はまた、ため息をひとつ。

 今の会社でも彼は古参となっていた、だが、いまだに平社員、しかも営業成績はいつも最下位だった。
 社員旅行で近くの歴史資料館に行った時、江戸時代の街並みがジオラマとなって拡がる脇で、自分より年の若い課長がその街並みを指さして
「山辺さん、家の屋根んとこ、見える? あれが『うだつ』って言うんだって。
……ってまあ、山辺さんには、関係ないかー」
 そう言って、笑いながら行ってしまった。ついてきた数人も、くすくす笑っていた。
 山辺には、『うだつ』が建物のどこの部分なのか、よく分かっていなかった。
 課長があてこすりを言ったのも重々承知だったが、いつものようにあやふやな笑みを返したのみだった。

 介護施設に入っていた両親も相次いで亡くなり、残されていたのはこの古びた二階建ての家と、猫のミーニャンのみ。
 しかしミーニャンも、先月、彼の顔をまじまじと眺めてから、ふいと家を出て行ってしまった。それから影も形も見えない。

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