「助けて!」
迷うことなく、山辺は舵をきった。
少女は、学校帰りだったのか、白いセーラー服のままだった。雨に打たれたのか水に濡れたのか、透けているのはこの際どうでもいい、問題は、彼女が襲われていたことだ……なぜか、巨大な蛸の脚に。
少女の下半身はすでに、幾重にも蛸の脚が巻きついている。いちばん太いところで、大人の胴体以上のボリュームがあった。吸盤は、ちらりと見ただけでも料亭の大盛り刺し身皿くらいはありそうだった。そんな脚がぬるりとうごめき、いったん離れたと見せかけてまた、彼女に襲いかかっていた。右足の黒い革靴が弧を描いて飛び、濁流にのまれる。
「誰か……だ、」それでも細い脚先のひとつが彼女ののど元にかかる、彼女は両手で必死にそれを引きはがそうとした、しかしもう一本の脚が無情にもその両腕に巻きつく、
「ぐっっ」喉を鳴らす音、うねる脚先、そこを
「ていやっ」
彼は、風呂桶の底を力いっぱい蹴り、持っていた竹竿を比較的安定したスレート屋根に突き立てて
「はあっっっ」
思いざま、跳んだ。
彼の体は弧を描き、彼女のすぐ目の前に着地、それから、彼はあまりの勢いで宙を舞った竹竿を再びキャッチ、その竹竿で
「御免!」
目の前の彼女を、思いざまなぎ払う……いや、彼女を、ではない、彼女にからみつくその巨大な蛸足に。
あまりの勢いに、絡みつく脚の力がいっしゅん、ゆるんだ。そこをすかさず
「とおぉぉぉっっっ」
彼は、竿を縦に持ちかえ、水中の一点にただ意識を集中させ、力の限り突きおろした。
この世のものとは思えない絶叫が、ヒルズ一体の空気を引き裂いて長々と響きわたる。
やったか、と安堵の吐息をつく山辺、しかし
「……!」
いつの間にか、のど元にぬらりとした感触を覚え、彼は竿を手離した。
それが失敗だった。
生き残ったらしきバケモノの脚が、いっぽん、そしてまた一本、彼めがけて襲いかかる。
「ぅあああ」今、狙われているのは彼だった。
パニックに襲われそうな少女に、だいじょうぶ、というふうに手を振ってみせ、それでも彼の頭の中も真っ白に染まっている。
やばい、めっちゃ、やばい!
オレはこのまま、死ぬのか……?
死ぬのが、本当はこわかったのだろうか?
まだ何か、できると思っていたんだろうか?
暗転する意識の中、ぎゃあ、とどこかで叫ぶ声がした。
かすかに残る視界の中、小さな黒と白の斑をした何かが、巨大な脚に飛び付き、引っかいては噛みつき、果敢に攻撃しているのが、見えた。