小説

『一寸法師、見参』柿ノ木コジロー(『一寸法師』)

 彼は慌てて手を上げ、はっしとその端を捕まえた。ぐっと引っ張る力は半端ない、しかし、どうにか耐えて、彼はつるつると滑る竹の棒を手元に引き寄せた。
 何とか櫂は手に入れた、あとは……
 彼は竹の棒を両手で横向きに掴む。そして左足指でしっかと風呂の栓を上から押さえつけて、膝のばねを利かせるように立ちあがった。

 櫂を操ると、浴槽の動きはかなり安定した。しかし、止めることはできない。
 古い分譲地とちょっとした林とをあっという間に抜け、浴槽は濁流の分岐点に到達していた。
 そのまままっすぐ進むと、さらに大きな川へと合流、すぐに海に出てしまう。
 彼は迷うことなく右の護岸を櫂の先で思いざま突くと、舵を左に切った。
 小さな落差を乗り越えて、浴槽はヒルズ中心部へと続く用水路へとなだれ込む。
 浴槽は大きくバウンドし、いったん先を水に沈めそうになりながらもゆるやかに跳ね上がり、すぐに態勢を立て直した。
 用水路も流れが速く、両脇の道路もかなり水に浸かっている。しかし、どこも丈夫な鉄柵が取り付けられているため、用水路から外れて浅瀬に浴槽を乗り上げさせることは、不可能のようだった。
 もう少し下れば何か助かる方法が見つかるかもしれない。
 彼は必死に櫂を操る。

 脇を、さまざまな生活用品が一緒に流れていく。
 子ども用便座がのんびりと浮かび、くるくると回りながら流れていく。その後ろ、濁流の中にいっしゅん何か大きな魚の影がさした。アロワナのようにも見えた。

 汗を流しに風呂に入っていたはずなのに、山辺はすでに汗まみれだった。

 左側の住宅地に、雨合羽の数人が土嚢を運んでいた、が、流れてくるものにみな、その場に立ちすくんだ。
「何やあれ!?」「こわっ」「てかマッパ……」「すっげーーー」
 誰も、手を差し伸べようとしない。何だか妙に感心されてしまい、山辺もなぜか
「助けて」
 の一言が出て来ない。ただ、右手を挙げて、
「よお」
 何となく、挨拶をしてしまった。雨合羽の彼らも、つられておずおずと手を振った。
「ばかだ、俺はばかだ!」
 激しく自分を罵りながらも、彼はまた、長い櫂を操る。浴槽はヒルズのど真ん中にいた。

 川沿いの家いえ、避難しているらしい二階の窓から、覗いている人も多かった。
 何度か、子どもや高齢者とも目が合った。目をまん丸に見開いて、ただ、じっと彼をみている親子、うれしそうに手を振って見送ってくれるご老人、さまざまだったが彼はそのたびに、軽く手を振り返し、いかにも余裕です、みたいな表情を取りつくろってしまう。
 まあたいがいが、喜んでくれている、そこがなぜかうれしかった。

 しかし束の間の喜びは「助けて!」という金切り声で唐突に終わりを迎えた。
 揺れる風呂桶の少し前方、波というより暴力的とも言える水のぶつかり合いで毒濁りの大きな池となっているそのただ中、寄せ集められた木材、屋根だったものらしきスレートの板、車や小屋そのものが大きくつみ重なりひとつの島を形成している、そのまん真ん中に崩れるように膝をつき、ひとりの少女が髪を振り乱し、鳴き叫んでいる。

1 2 3 4 5