小説

『M』浴衣なべ(『桃太郎』)

 むう、痛いところをつかれた。シュウの言う通り、日食は地球上から観測するからこそ神秘的なのだ。しかしそれでも、やっぱり私はベストポジションで皆既日食を楽しみたいのである。
「その辺は問題ないから」
 私は予めこれから進む宇宙船の航路を調べ、そこへ向かうためのショートカットを見つけておいた。皆既日食の観測ポイントを経由したあとそのショートカットを利用すれば、エネルギーや時間に通常のルートを使用するよりも少しだけ余裕が生まれるはずだ。
「ふむ」
 私の説明を聞いたあと、今度はシュウが唸る番だった。感情的で気まぐれな性格の私と違って合理的で効率を重視するシュウならばこの説明で納得してくれるだろう。
「急にそんな話をされてもなあ」
 しかし、意外なことにシュウは首を縦に振ってくれなかった。肯定も否定もしないどっちつかずの態度は、シュウっぽくない。
「私の計算が信じられないの?」
「そんなことはない。エミリー計算自体は合っていると思う」
数字を用いた単純な計算はシュウよりも私の方が得意だ。だからこそシュウもそこは信用してくれた。
「じゃあいいじゃない」
「うーん」
 シュウは具体的なことを口にせずただただ唸っていた。苦々しい表情を浮かべているのは、私の希望を叶えたくないからではなく、理屈に合わない自分の態度に戸惑っているからだろう。シュウの言動にはいつも矛盾がなく正当性がある。でも、今のシュウにはそれがない。シュウ自身、自分の曖昧な態度に居心地の悪さを覚えているのだろう。
「わかったよ。今回はどう考えてもエミリーの主張が正しい。嫌な予感がするけれど、好きにしたらいいさ」
「やった! ありがとシュウ!」
 私は喜びのあまりシュウに勢いよく抱き着いた。すると、シュウは素っ気ない態度で私を押しのけた。
「やめてくれ、暑いだろ」
 シュウは顔を真っ赤にしていた。私は空調機のリモコンを見たけれど、設定されている温度はちょうど良いものだった。
 次の日、一日の研究が終わったあと、私は夕食の準備を始める前に操舵室へ向かった。ちょうど一時間後に太陽の光で邪魔にならず皆既日食を楽しめる位置に着くよう目的地を設定するためだ。これで私とシュウは夕食を食べながら皆既日食を見られるはずだ。
 食事の準備をしている間、私はずっと上の空だった。手を動かしながら皆既日食のことを考えていたからだ。太陽からつかず離れずの距離を保ち宇宙空間をゆっくりと滑っていく地球。突如、そこに大きな影が生まれてゆっくり地表を舐めていく。影の正体は地球と太陽の間に入った月だ。太陽から放たれる光を月が遮ることで地球にはとてつもなく大きな影が生まれる。その影が地球を横断し終わると太陽の光が再び大地に降り注ぐ。その一部始終を想像しただけで、私はうっとりして手元が覚束なくなる。おかげで目玉焼きの黄身を潰して卵焼きにしてしまったり小麦粉とパン粉を間違えエビフライではなくエビの天ぷらを作ってしまったけれど、胃袋に収まれば問題ないので些末な失敗だった。

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