今更、ボールのひとつが手に入ったからって、僕に何ができる? あの日には帰れない。僕はもう少年でもない。
寝室は少し散らかっていることをのぞけば、特に変わったところはなかった。作業用のパソコンとカメラがデスクの定位置に置いてある。ベッドに乱れもなく、壁に貼ってあるポスターもそのままだ。
ボールを見たとき、部屋から聞こえてきた音の正体に気がついた。ボールの出来を確かめるために、アオが壁に蹴っ飛ばしていたのだろう。いや、それはボールの出来を確かめるためだけではなかったのかもしれない。
僕はポスターの前に立った。ファッショナブルな服に身を包んだしおりがそこにいる。腰に手を当てて、斜に構えた格好で僕を見つめている。
バン。
恐らくアオがそうしたように、僕はしおりのポスターに向かってボールを放った。ボールはしおりが投げ返してくれでもするように、壁に跳ね返り僕の手元に戻ってくる。僕はもう一度ボールを放った。
バン。
転校してからしおりとは会っていない。次にしおりを観たのはテレビの中だった。僕が高校を中退した年、しおりはモデルとしてランナウェイを歩いていた。自分の居場所を見つけたような堂々とした姿だった。
バン!
それから不倫報道があった。相手は妻子のある男性らしかった。ここ数日、テレビはその話題で持ちきりになっている。
僕はベッドに腰掛け、アオがくれたボールを眺めた。申し分ない完成度だ。だけど僕にはキャッチボールをする相手がいない。
そろそろちゃんとしなさいよ。
母の言葉が頭に浮かんだ。ちゃんとってなんだ? スーツを着て会社に行き、タイムカードを切る日々のこと? 違う、きっと違う。僕はいつも撮影する椅子に腰掛けた。目の前にはカメラがある。そう、『ちゃんと』って、きっとそういうことじゃない。
ユーチューブを通してしおりについて語れば、僕も非難の対象になるだろうか。でもわかって欲しい。僕は不倫を弁護するわけではない。ただ、一人でいる彼女に伝えたいことがあるだけだ。僕はカメラを起動させ、ボールを天井に向かって放り投げた。最初の一言は決まっていた。
「今日は僕の『友達』について語ります」
窓の外を見やると、いつの間にか雨は上がっていた。