僕の知っている日本語とは少しだけ違うイントネーションでしおりが言った。彼女の腕の中にいる猫は、しおりと同じように茶色い目をしている。黒目であるはずの部分が茶色いのだ。確かにそんな猫は見たことがなかった。
「ボールを隠して、一緒に遊んでるつもりだったのかな、ずっと」
猫はまだ子猫だった。しおりが猫を抱き寄せる。
「名前つけていいかな」
「なんて?」と僕は尋ねた。
「アオ」
僕がそう言うと、ベッドの上の猫がこちらを振り向いた。茶色い目に見覚えはあるが、すっかり歳を取っている。あれから10年以上が経つ。猫の10年は人間の60年ほどだと聞いたことがある。
「おばあちゃん、アオだったの?」
アオは返事をするようにニャアと鳴いた。雨の匂いがすると思ったら窓が開いている。アオが窓枠に飛び移った。
「待って、アオ」
僕はアオに手を伸ばした。
「白いのにアオ?」
命名をしたしおりに僕は尋ねた。
「だって青いボールが好きだから。好きなものの色の方がいいよ。自分の色なんてきらいかもしれない」
僕はしおりの茶色い目を見ないように猫に視線を落とした。アオはしおりの腕の中で目を細めている。名前が気にいったのだろか。
「日が暮れるまで遊ぼうよ」僕が提案するとアオは鳴き、しおりがこくりと頷いた。
「待って、アオ」
窓の枠に脚をかけたアオが振り返って僕を見た。それから嬉しそうに目を細め、窓から出て行った。
部屋にはアオの白い毛が散らばっている。僕は自分が買ってきた39色の刺繍セットを拾い上げた。糸は一色しか使われていない。青だ。そのとき、ベッドの近くに転がっているもの気がついた。
「ゴメンね」
帰り際、しおりは何度も僕に謝った。
その日、僕たちは最後のボールをなくしたのだ。
厳密に言えばそれはしおりのせいではない。しおりが投げたボールは風に流されただけだし、川の方へ転がっていったボールを最後に蹴飛ばしたのはアオだった。川に落ちたボールは、それから勢いよく川下に流れていった。
ボールがなくなればどうなるだろう。僕たちが校庭で遊ぶ理由もなくなるのかもしれない。僕たちは必死にボールを追いかけた。最後まで追いかけていたのは、しおりだった。止めていなければ、川に飛び込んでいたかもしれない。
「ゴメンね」としおりは繰り返した。
「また遊べるよ」と僕は言った。「青いボール、親に買ってもらうから」
そう約束した。だけど僕たちが遊ぶことはもう二度となかった。しおりにもわかっていた。学校でからかわれることに僕たちは疲れていた。秋になると、僕の引っ越しが決まった。
ベッドの近くに落ちているそれに僕は手を伸ばした。拾い上げて初めて、それが糸で出来ていることに気がついた。青い玉だ。不思議な感触だった。どういう仕組みなのか、床に落とせば、ちゃんと手元まで跳ね返ってくる。
「キャッチボールができる」部屋で一人きり僕は呟いた。ボールさえあれば。アオはそう思ったのだろうか。ボールさえあれば、また僕たちと遊べると。あの日に戻れると。それともこれは恩返しのつもりなのだろうか。なんにせよ、
「遅いよ」