「パソコンも取ってもらえませんかぁ?」
僕の問いに女は返事をしなかった。僕はため息をつきながらスマホの着信履歴を確認した。それを見て、さらに大きなため息が口から溢れた。
「なんで喫茶店なの」
アイスコーヒーを持ってきたウェイトレスが振り向くほど大きな声で母が言った。昔から感情がそのまま声の大きさに反映される人だった。
「気に入ってるんだよ、ここ」
嘘だった。だって僕は家から出ないのだ。母が眉を顰める。
「まさか部屋に彼女がいるんじゃないでしょうね?」
名探偵め。だが彼女ではない。おばあさんだ。僕は心の中でそう返事をして、アイスコーヒーをぐびぐびと飲んだ。
定期的に母は名古屋からやってくる。理由はひとつ。外出もせず、わけのわからぬ動画をあげ、どこからか金銭を頂戴している息子を心配しているのだ。息子の安否をではない。何かしでかすのではないかという方の心配である。電話にも出ない僕に、時折父はこうして母を送り込む。送り込まれる母も、家事から解放され東京を満喫できるのだから、乗り気であることは言うまでもない。
「あんたそろそろちゃんとしなさいよ」
そして決まって言うのがこの台詞。
「私もお父さんも恥ずかしい思いしてるんだからね」
『ちゃんと』、とはなんだろう。僕はいつもそのことを考える。スーツを着て会社に行くことだろうか。タイムカードを切り、アフターファイブで職場の仲間に愚痴を零す日々のことだろうか。そうすれば両親を『恥ずかしい思い』から解放してやることができるのだろうか。
「わかってるよ」と僕は言った。それも嘘だった。
帰宅すると、一区切りしたらしい女がリビングでテレビを眺めていた。朝の光景と同じだ。コメンテーターたちは引き続き、不倫の話題でテレビを盛り上げている。女は横目でテレビを眺めながら、牛乳を飲んでいた。ごくごくとのどかに喉が動く。
「順調なの?」僕が尋ねると、飲み切ったグラスを愛おしそうに見つめながら、「きっとすごく喜んでくれるはずです」と女が言った。
「あの、俺ってあなたと会ったことあるんですかね」
「あるんですよ」女は僕のイントネーションを楽しそうに真似る。
「あの、じゃあお名前は?」遠慮がちに質問を向ける僕に、女が首を横に振る。
「誰かわかってしまうじゃないですか」
「え、なんかまずいの?」
「ここから去らなくてはいけなくなるんですよ」つまらなそうに女が言った。
「もうこのご時世、バレるたらどうなるかわかってるはずでしょう? どうして自制ができないんですかねぇ」
コメンテーターが声を荒げた。その声は僕たちの平和な世界には不釣り合いだった。僕はテレビを消した。
「ほらほら。早いとこ作業戻ってよ。終わるまで俺は部屋を使えないんでしょ?」