小説

『遅すぎた女』yui.chi(『鶴の恩返し』)

 駅前のセイユーでツナ缶と鮭を購入し、帰りがけに文房具屋で三十九色の刺繍糸と、ソーイングセットを買った。大きな雨粒が降り注ぎ、歩くたびに僕を濡らした。
 帰宅したびしょ濡れの僕から、女は糸と魚を引っ手繰る。労いの言葉は特になく、代わりに「決して部屋を覗かないでくださいね」という言葉を残して寝室に消えた。
 廊下に残された僕の身体から雨雲のようにぽたぽたと水滴が落ちる。寝室には体を拭くためのバスタオルがあった。仕事に使うカメラとパソコンも置いてある。スマホもベッドの上に置きっ放しだ。
僕は寝室のドアにそっと耳を当てた。中からはくちゃくちゃと魚を食べる音がする。僕は「覗かないで」という要望を即却下し、ドアノブを捻った。しかしドアは開かない。鍵をかけたのか。『覗かない』のではなく、『覗けない』ではないか。
「ちょっと、おばあちゃん。開けて」
「覗かないでって言ったでしょ?」
「なんで?」
「作りたいものがあるんです」
「魚食ってるだけでしょっ」
「そんなことありませんっ」女はくちゃくちゃしながら言い返す。「あなたがとっても喜ぶものですよっ」
「恩着せがましい」
「違う。私は返しに」
「返す? なにを?」
 女はその問いには答えなかった。そのあとはノックをしても話しかけても返事をしない。無視か。無視なのか。僕は諦めてリビングに戻り、濡れたシャツとデニムを部屋に干した。素っ裸のまま大の字に寝転がると、天井のシミが北極星のように昨日と変わらぬ場所にある。
 スマホもパソコンも奪われてしまうと、僕にすることは何もなくなった。テレビは見たくない。重複するが、この部屋を訪ねてくる友達はいない。
 友達がいないのは今に始まったことではない。幼い頃から、僕には空気を読むという能力が欠落しているらしかった。よかれと思ってしたことがいつも裏目に出る。友達が真剣に悩みを打ち明けているとき、僕は悪ふざけをして顰蹙を買った。喋り出すと話が止まらないため、誰も僕の話を聞かなくなった。僕としては落ち込んだ友達を元気づけたかっただけだし、話が長いのはオチが見つからないせいだった。はしゃげばはしゃぐほど、喋れば喋るほど、僕の周りからは人がいなくなった。いてもそこには壁があった。その壁に気づいてしまうくらいには、空気の読める人間だった。
 小学四年生のとき、しおりという女の子が転校してきた。ひょろりと背が高く、茶色い目をしていた。髪も茶色かった。ハーフだった。きっと人気者になるだろう。一目見て僕はそう思った。
 だけど彼女は違う形で注目されることになった。彼女と話したクラスメートが「宇宙人だ」としおりを揶揄したのだ。イントネーションがおかしかったのかもしれない。彼女はそれ以降あまり喋らなくなった。喋らないでいると、僕たちとは違う見た目から、ますます話しかけづらい存在になる。彼女は僕と同じように一人きりになった。
「あの」
女の声が僕の思い出に割り込んでくる。目を向ければ寝室のドアから手だけが伸びている。
「うるさいんです、これ」
 女の手の中で僕のスマホが鳴っている。
 立ち上がろうとすると、ぽいっと女の手からスマホが投げられた。素っ裸でスマホに向かってダイビングキャッチをする僕の前で、寝室の扉が無情に閉められる。同時に僕の手の中で着信音が止んだ。僕は摩擦で熱くなった腹を摩りながらドアの前に立った。部屋の音は一切聞こえてこない。僕が喜ぶものって一体なんだ。そもそも「返す」ってどういうことだ。僕はあんな年上の女になにかを貸したことがあっただろうか。

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