小説

『睡蓮の雫』齊藤P(『浦島太郎』)

「…どうしてよ。私は貴方から逃げた。私のことなんて忘れてくれて構わなかった。それなのに…」
 答える者はいない。彼女にはただこの海よりも深く蒼く、澄んだ感情を抱きしめることしかできなかった。だがこれも…手放さなければ。
 その時、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「乙姫、無事っすか!貴方の騎士、亀山が助けにきましたよ!」
「大丈夫ですか乙姫…ってどうしたんですか、その顔。太一に何かされましたか?この凶悪犯め!」
 乙姫の秘書と亀山が輸送艇に乗って迎えにきたのだ。乙姫は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに顔を拭い、叫び返した。
「何でもないわよ、馬鹿!」
 踵を返し歩き出した乙姫の顔には、既に笑顔が浮かんでいた。
「帰るわよ、竜宮城へ」

「何で釈放なんすか!俺アイツに殴られたんすよ?」
 先程から亀山が乙姫に抗議を続けている。
「だーかーら、事故よ事故。とにかく浦島太一の人格矯正は終了したの。まぁアンタは災難だったわね。後で蛤あげるから機嫌直しなさい」
「マジ?乙姫最高!」
 驚くべき速さで態度を変えた亀山は、上機嫌で去っていった。
「本当に良かったんですか?浦島太一のこと」
「いいのよ。アイツは犯罪者なんかじゃないって分かったから。後でちゃんと説明してあげるわよ」
 そう答えた乙姫の横顔は、長く秘書を務めている私でも今までかつて見たことがないほど晴れ晴れとしていた。
「地上で、何かあったんですか?」
 そう尋ねると、乙姫は小さく微笑んだ。
「別に。ただ……ただ、やっぱり人間って本当、どうしようもない奴ばかりだって。そう、改めて感じただけよ」
 そこで一度言葉を切った。そして、独り言のように呟いた。
「でも、嫌いじゃないわ」

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