小説

『睡蓮の雫』齊藤P(『浦島太郎』)

 なぜ浦島がそんなことをする必要があるのかは依然不明だが、亀山の一件で浦島が危険人物であることがわかった。そんな人間に乙姫が何をされるかわかったものではない。このまま地上に帰すなどもっての外だ。
この竜宮城から逃すわけにはいかない。なんとしても浦島を拘束し、乙姫の無事、さらには地上の安全を確保しなければ。
 彼は乙姫を攫った後、どうするだろうか。決まっている。この竜宮城からの脱出を図るはずだ。竜宮城内でもたついていれば従業員達がやってきて、いずれ捕まってしまうし、それは向こうもわかっているだろう。であれば、自ずと行動の予測はつく。
 この竜宮城からの脱出方法は3つある。1つ目は城の正門から、2つ目は裏門からの脱出だ。しかし当然ながら2つの門には屈強な鮫の警備員が常駐しているし、もしうまくそこを抜けられたとしても人間である浦島の呼吸が竜宮城から海面まで保つとは思えない。つまり、浦島がこの竜宮城から脱出するためには、3つ目の脱出方法しかないのである。目的地は定まった。
 そこまで考えてから私は、門の警備員に乙姫を攫って逃亡中の人間が1名脱出を図っていることと、門の警備を厳重にするように伝えた。それから執務室内に備え付けてある刺股を掴み、浦島の脱出を阻止すべく走り出した。

 心臓が早鐘のように鳴っている。全身は汗だくで、まるで水浴びをしたようだ。緊張と焦りと疲労が入り混じり、気をぬくと倒れそうになる。しかし立ち止まるわけにはいかない。俺は必ず乙姫を連れて地上に帰らなければならない。当の乙姫は眠らせて近くの壁に凭れさせている。
 亀山さんには悪いことをした。俺を竜宮城に連れてきてくれた恩人である上に、業務中も気さくに話しかけてくれる良い人──いや、良い亀だったのに。亀山さんだけではない。この竜宮城で働いている人達は、乙姫を始めとして皆良い人ばかりだった。彼らに対し恩を仇で返す形になってしまったのは本当に心苦しい。できれば笑顔でお別れを伝えたかったが、何事にも優先順位というものがある。浦島はそこで思考を中断し、作業に意識を集中させた。今の所計画通りだ。業務外の城内清掃を進んで引き受けたことで、城内の構造はこの4日間でおおよそ頭に叩き込むことができた。竜宮城スタッフとの会話から、人間である自分が安全に、かつ確実に竜宮城から脱出するためにはこの場所、即ち対人輸送艇保管庫の場所を把握しておくことが何より重要だと知った。この部屋には人間を地上から連行、もしくは竜宮城から解放する際に、安全に輸送するための簡易的な潜水艦のようなものが保管してある。今シャッターを開け、一番手前にあった輸送艇をできる限り静かに引き摺り出しているところだ。輸送艇を引き出してしまえば、あとは専用の射出口から脱出することができる。とにかくスタッフ達に気づかれぬよう、ゆっくりと…
 ガツン、と何かがぶつかるような音が聞こえた。どうやら輸送艇の左舷部分が引っ掛かってしまったようだ。こんな時に。落ち着け、と自分に言い聞かせる。こんな時こそ冷静に対処しなければ。
 その時だった。
「待ちなさい!」

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