小説

『睡蓮の雫』齊藤P(『浦島太郎』)

 人間の男に恋をしたのだ。告白してきたのは向こうからで、気持ちが通じ合った嬉しさに涙した。多くの時間を共にしてたくさんの思い出を作った。しかし同時に、彼とこのまま一緒にいることは許されないことも理解していた。まず人魚である自分と彼とでは生きるべき環境が違う。加えて人魚と人間では刻んでいく時間に大きな差がある。私たち人魚は普通数百年生きるが、人間の寿命はそれよりもずっと短い。一生を共にするならば、同じ人間と結ばれたほうが良い…それが私の結論だった。
 ある満月の夜、私は彼から逃げるように浜辺を後にし、海の底へと潜って行った。深く。何も考えないように。私は相応しくない。ああ、しかし…本当に幸せだった。壊れた時計の針を回すような行為だと理解していても、私はあの瞬間を閉じ込めて、そこに溺れていたかったのだ。だがこれっきりだ。彼のことは忘れよう。そう思っていた。

 水平線から登りゆく朝日が地上の全てを色付けていく。光に抱かれた草木は生命を吹き込まれたように輝き始めた。海辺にある小高い丘の上の家。浦島太一に連れられ、乙姫は扉の前に立っていた。心臓が静かに、しかし大きく鳴り響いている。扉を開け、陽光が部屋を、そしてその奥に横たわる老人を照らし出した。乙姫は光のカーペットを一歩ずつ、噛みしめるように歩いていく。まるで失われたものを取り戻すように。輝きの中で、老人と目が合った。時の流れが姿を変えようとも、目にした瞬間に彼だと分かった。
「乙姫…なのか」
「…はい。太郎さん」
 懐かしい声。あの頃と何1つ変わらない。
「夢でも、見ているのか」
「いいえ、夢ではありません。私は確かにここにおりますよ」
「ああ。乙姫。君は変わらず美しいな。私は──俺は、君のことを忘れたことはなかったよ。君に看取ってもらえるとは、俺は幸せ者…だな」
「……」
 太一のいう通り、太郎はもう長くないことが見て取れた。今にも消えてしまいそうな命の灯火を必死に燃やして、乙姫に対して言の葉を紡ごうとしている。乙姫は太郎にさらに近づき、耳を澄ませる。
「乙…姫。俺…は、君を…」
 振り絞るように呟くと、太郎の口はそのまま永遠に閉ざされた。乙姫は身を乗り出し、太郎の額に接吻をした。
「私も…心より愛しておりましたよ、太郎さん」
 大海の美姫の頬を伝う雫はそのまま溢れて川となり、死せる男の魂を安息へと導いていく。陽光煌めく大海原は、どこまでも蒼く深く広がっていた。

 太一によれば、浦島太郎は乙姫と別離した後、人間の女性と結婚し、息子である太一を授かった。しかし結婚生活は太一が3歳の頃破綻し、爾来太郎は男手ひとつで息子を育て上げたという。晩年、太郎は不治の病に倒れた。もう長くないことは誰の目にも明らかであった。太一が何か自分に出来る事はないかと父に尋ねたところ、うわ言のように竜宮城の乙姫に会いたい、と呟いたそうだ。
「海岸を歩いていたら、竜宮城からやってきたという亀山さんに出逢ったんです。千載一遇のチャンスだと思いました。それで…」
 乙姫は太一から視線を外し、海の方を見た。

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