小説

『睡蓮の雫』齊藤P(『浦島太郎』)

 物音1つ聞こえない。やはり先ほどは寝ぼけていただけだったのか。
 そう思った刹那。
 静寂が引き裂かれた。足音だ。
 あの方向には…浦島の部屋がある。寝室に戻り時計を確認すると、針はちょうど午前4時を指し示していた。
 午前4時──浦島の犯行予定時刻だ。
 まさか。
 次の瞬間、私は不安を振り切るように浦島の部屋に向かって駆け出していた。仕事柄、何人もの凶悪な人間達を見てきた。それなりに人間を見る目は肥えていると自負している。浦島が竜宮城へやってきてから4日間、経過観察係として彼を見てきたが、彼の善良な振る舞いに一切の偽りはなく、よく耕された土から良い作物が自然と実るように、その行動は全てその清廉な心から自発的に生じたものであることは、疑いようのないことだと思っていた。共に経過を見ていた乙姫や亀山も私と同意見だった。
 しかしそれが──全て私たちを欺くための演技だったとしたら?
 浦島の部屋の前に到着すると、亀山が倒れている。部屋の中に浦島の姿はない。
「亀山さん!しっかりしてください」
「う…く…」
 呼びかけると亀山は意識を取り戻した。どうやら気絶していただけのようだ。
「大丈夫ですか?一体何が…」
「浦島…が」
 忌々しそうに亀山は言う。
「やられた。後ろから…何かで殴られて、それで…意識を失っていた。早く…乙姫に…知らせないと」
 それだけ言うと亀山は再び意識を失ってしまった。幸い、命に別状はないようだ。そのままゆっくりと床に寝かせておく。
 まさか、本当に浦島が。嫌な予感が的中してしまった。それも最悪のタイミングで。
 現在、竜宮城内にいるエージェントは亀山1人だ。その亀山が倒れた今、場内には私と乙姫、住み込みの数人のスタッフ、そして城の門を守る最低限の警備員しかいない。
 浦島の目的が何であるかはわからないが、とにかく亀山のいう通り、一刻も早く乙姫に知らせなければ。
 今度は乙姫の執務室に目的地を変更し、私は弾かれたように走り出した。

「非常事態です、乙姫!至急アナウンスを──」
 豪奢な両開きの扉を吹き飛ばす勢いで執務室に入るなり、そう叫んだ。返答はない。まだ眠っているのだろうか。乙姫は眠りが浅いから、いつもは微かな物音で目を覚ますのだが。執務室の向かって右側の壁には、乙姫の寝室へと通じる扉がある。扉の中を覗く。
 なんということだ。
 乙姫の姿がない。
 寝室にあるのはもぬけの殻となった布団と、眠る前に読み直していたのだろうか、枕元にある収容依頼書だけだ。
 一体、何処へ。
 その答えは、目に入った収容依頼書が教えてくれた。
 浦島の犯行予測。1つ目は傷害だ。これは恐らく先ほどの亀山への暴行のことだろう。時刻も一致していた。
 そして2つ目は誘拐。
 すなわち乙姫は…浦島に拐かされたのではないか。

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