小説

『睡蓮の雫』齊藤P(『浦島太郎』)

 鋭い声が廊下に響いた。浦島が声の方向に目をやると、乙姫の秘書が肩で息をしながら立っていた。
「秘書さん…寝ていたはずじゃ」
「浦島太一、あなたを拘束します。両手を頭の上にあげてその場に伏せなさい」
 刺股を構えている。素手では分が悪いか。どうする。
 ポケットを弄ると、何か硬い感触があった。そうだ、これがあったか。浦島はポケットに入っていたそれを取り出し乙姫の秘書に向かって噴出した。
「なっ…これは…!」
 秘書は一瞬驚いた声を上げたが、次の瞬間には床に倒れ動かなくなった。これは掃除の最中に見つけた玉手箱の合成に使われる睡眠作用のあるガスだ。乙姫を拐かす際に用いた余りが残っていたのだ。
しかし、ぐずぐずはしていられない。先ほどの秘書の声で、スタッフが起きてしまったかもしれない。
「ふんっ」
 思い切り力を入れて輸送艇を引き摺り出した。力んだせいでシャッターと廊下の壁を少し壊してしまったが、拘泥している場合ではなかった。急いで射出口を開き、輸送艇に乙姫を乗せて自分も乗り込む。幸いなことに輸送艇はハンドル、アクセル、ブレーキのみのシンプルな作りになっていた。一か八かだったが、これなら自分でもなんとか動かせそうだ。浦島は思い切りアクセルペダルを踏み込み、明け方の海中へと漕ぎ出していった。

 なんだか懐かしい匂いがする。ゆっくりと瞼を開けると、光のシャワーが降り注いできた。乙姫は堪らず目を閉じる。この眩しさ…ここは、地上?再び瞼を開けて周りを確認してみる。確かに地上だ。浜辺の木の幹に凭れかかっている。これはどういうことだろう。
「気づかれましたか」
 不意に横から男の声がした。見ると、竜宮城に収容中のはずの浦島太一が立っていた。
「え…?どうしてアンタ、収容中のはずじゃ。ていうか、何で私、地上に…」
「まずはこのようなご無礼を働いたこと、お詫び申し上げます、乙姫様。お休み中の貴方を地上へ連れてきたのはこの私です。後ほどどんな処罰でもお受けいたします。しかし、誠に勝手ながら、今は私の望みを聞いていただけませんか」
 正直乙姫には今の状況がまだ飲み込めていなかったが、浦島の差し迫った表情から、何か訳ありなのだと察した。
「…わかったわよ。望みっていうのは何?」
「『浦島太郎』を覚えていらっしゃいますか」
 浦島、太郎…その名を聞いた瞬間、体に電流が走り抜けた。同時に、目の前にいるこの浦島太一が何者なのかを理解した。
「貴方…は」
「時間がありません。どうか最期に会っていただけませんか、乙姫様。我が父…浦島太郎に」

 昔、恋をしたことがある。今となっては遠い、微かに煌めく星のような思い出になってしまった恋。季節は確か夏だった。

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